本文抜粋

『鉄道の食事の歴史物語:蒸気機関車、オリエント急行から新幹線まで』(原書房)

  • 2022/01/26
鉄道の食事の歴史物語:蒸気機関車、オリエント急行から新幹線まで / ジェリ・クィンジオ
鉄道の食事の歴史物語:蒸気機関車、オリエント急行から新幹線まで
  • 著者:ジェリ・クィンジオ
  • 翻訳:大槻 敦子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(300ページ)
  • 発売日:2021-12-16
  • ISBN-10:456205980X
  • ISBN-13:978-4562059805
内容紹介:
駅舎で買う簡素な軽食から、豪華な食堂車での温かな特別料理へ。鉄道旅行の黄金時代を支えた列車での食事の変遷を追う。レシピ付。
タルト、サンドイッチ、牡蠣、ウミガメスープ、アイスクリーム。列車に乗りながら食べる食事は、駅舎で買う簡素な軽食から、豪華な食堂車での温かな特別料理へと変わっていった。鉄道旅行の黄金時代を支えた列車での食事の変遷を追った書籍『鉄道の食事の歴史物語』から序章を公開します。

新しい移動手段での不便な食事

1820年代、最初の蒸気機関車がイギリスで誕生して、鉄道による旅客輸送の時代が幕を開けると、世界は一変した。人々は初めて馬よりも速い乗りもので移動できるようになった。それまで数週間かかっていた旅が数日になった。かつて数日だった旅は数時間ですむようになった。それから数年で、鉄道は旅だけでなく、ビジネス、通信、食品の物流、食事のしかた、社会の慣習をがらりと変えることになった。

ただし、当時の鉄道の旅はたいへんだった。乗り心地が悪いくらいですめばまだましだ。食べるものはほとんど、あるいはまったくなく、トイレもなかった。また、場所によっては命がけだった。ずさんに敷かれた線路は脱線を招いた。線路上の人、動物、木の枝が事故につながった。エンジンから飛び散る火花で火災が発生した。時差のある地域同士で連携が取れていなかったために、運行時間が大混乱に陥って予期せぬ事態が生じた。

鉄道を建設する人々は当初、客の乗り心地や食事、また安全のことなど考えていなかった。彼らの頭のなかは機関車と線路のレール幅を合わせることでいっぱいだった。彼らが運ぼうとしていたのは貨物であって、人ではない。貨物は食事も乗り心地のよい座席も必要なく、文句もいわない。

多くの困難にもかかわらず、旅客サービスが始まったとき、ほとんどの人は鉄道のスピードと利便性に驚き、感心した。人々は煙とすすのなかにぞくぞくするような新たな可能性を見いだした。それでも、革新的なテクノロジーにはよくあるように、だれもが熱狂したわけではない。ローマ教皇グレゴリウス16世は、悪魔の仕業だと述べて鉄道に反対した。彼はフランスからの訪問者に向かって、鉄道は「シェマン・ド・フェール」ではなく「シェマン・ダンフェール」、つまり鉄の道ではなく地獄への道だと語っている。

そこまで批判的ではないけれども一般的な意見としては、旅の時間があまりに短縮されてしまったために、たとえば都会から地方へ赴くときに気持ちの切り替えがうまくいかないという声が上がった。列車があまりに速いため、景色を楽しむことができないと不満を述べる人もいた。フランスの評論家で作家のジュール・ジャナンは1843年に、ヴェルサイユへの列車には二度と乗らないと書いている。「走り始めたと思ったらもう着いている! 道中を楽しめないなら出かける意味がないではないか」


未知の体験が次々と


初めのうちは乗車時間が短く、食事がなくても大丈夫だった。けれども次々に新しい路線ができて距離が伸びると、食事が問題になった。鉄道会社がとった解決策のひとつは、駅に休憩所を作ることだった。蒸気機関車はおよそ数百キロごとに止まって水を補給する必要があるため、それがもっとも合理的に思われたのである。鉄道会社が休憩所を運営している場合もあれば、個人がやっている場合もあった。形はいろいろでも、ほとんどは質の悪い食べものを売りつけ、乗客に食べる時間を十分に与えなかった。もっとも、鉄道の発達状況は各国、また国内でも各地方によって差があったことから、たとえ同じ時代であっても、列車と駅の休憩所における旅行者の実体験はさまざまに異なっていただろう。

1843年、ロンドン在住の婦人なら、初めての鉄道体験について次のように語ったかもしれない。

「今年、夫とわたしは初めて汽車の旅に出たの。2年前にバーミンガムの妹夫妻を訪ねたときは乗合馬車で、そのときは12時間もかかったわ。でこぼこ道を12時間もよ。だから今回は汽車を試すことにしたの。車掌の話では距離が180キロあるらしいけれど、ほんの6時間ほどで着いたわ。想像できる?

たしかに、時速35キロはとても速いけれど、鉄道はしっかりした作りよ。じつは去年までは少しスピードが心配だったの。でも女王陛下がスコットランドまでお乗りになったでしょう? ヴィクトリア女王が乗れるくらい安全なら、わたしたちも大丈夫だと思って。以前アルバート殿下もお乗りになったけど、女王陛下を見て踏ん切りがついたわ。

もちろん、女王陛下みたいにふかふかの絹の壁でできたすばらしい客車には乗れないけれど、一等車の切符を買ったのよ。二等車は座席が木製の長椅子だと聞いたから。

女王陛下は客車でディナーを召し上がったのかしら? わたしたちの汽車ではそのようなものは出なかったけれど、ウルヴァートン駅に停車したとき休憩室に軽食があった。10分しか時間がなかったけれど、紅茶とバンベリー・ケーキには十分だったわ。ポークパイもあったけれど傷んでいるように見えたから、ケーキだけにしたの。

ロンドンの始発駅はユーストン駅で、ギリシャの神殿みたいだった。出発ロビーには思わず息をのんだわ。朝8時にロンドンを出て、午後2時にはバーミンガムに着いたから、サラとロジャーとのディナーにも間に合ったの。女王陛下にも負けないくらいすばらしい旅だった」

1850年代のボストンで暮らしていた銀行家は、ニューヨークまでの旅について以下のように述べたかもしれない。

「ニューヨークへの旅は、昔のように汽車と蒸気船を乗り継ぐのではなく、ほぼ汽車だけで行けるようになって、ずいぶんと楽になった。実際には、ボストン・ニューヨーク急行は4つの路線だ。ウースターまではボストン・ウースター線、スプリングフィールドまではマサチューセッツのウェスタン鉄道、ニューヘイヴンまではハートフォード・ニューヘイヴン線、最後にニューヨークまでがニューヘイヴン・ニューヨーク線。汽車は市街地までは乗り入れられないので、ニューヨークに着いてからホテルまでは馬車だった。総距離は380キロほどだったが、9時間で到着した。

車内でくつろごうと思ったが、床が汚くてかばんが置けなかった。おかげでかばんはずっと膝の上だ。わたしが思うに、つばを吐き出す噛みたばこは列車のなかでは禁ずるべきである。

旅の途中で食事はとれないとわかっていたので、午後2時半に家を出る前にすませておいた。オレンジ、キャンディ、新聞を売り歩いている若者を除けば、車内に食べものはなかった。新聞売りにはずるがしこい者がいて、わざと釣銭をまちがえて渡している。まあ、なかには愉快で正直な若者もいないことはない。ほかに何もないのだから彼らの商品でもありがたいといえばありがたい。

いつもと同じように、スプリングフィールドで20分間停車。ここで軽食が買える。乗客がわれ先にと列車から降りて休憩所に駆け込んだので、人ごみをかきわけて進まねばならず、ゆで卵ひとつしか手に入らなかった。

ニューヨークの聖ニコラスホテルに着いて、遅い夕食とブランデーに間に合ったのはなによりだった。この新しいホテルはアスターホテルに負けず劣らず、すばらしい。翌日のシカ肉料理は絶品で、ボルドー産の赤ワインもいうことなしだった。リリーも聖ニコラスホテルに連れてきてやりたいが、例の噛みたばこ問題があるので、ご婦人方とその連れには異なる客車が必要だと思う。

1872年にサンタフェ鉄道に乗って開拓地をめざした人物ならこうだろうか。

西部の汽車の旅は冒険だね。東部の文明社会を離れて未開の地へ入ったことが実感できる。遅延と脱線はしょっちゅうで、もう気にもならない。線路上で寝ていた牛をはねたらしく、それを片づけてまた動き出すまでにしばらく時間がかかった。よくあることだから乗務員も慣れたものだ。列車強盗もめずらしくないらしいが、幸い出くわさずにすんでいる。

座り心地が悪すぎて、車内では眠れやしない。それに、暑くて窓を開けずにはいられないから、客車に飛び込んでくる火花にも注意しなければならない。どのみち、においが強烈すぎてどんな悪天候でも窓を開けざるをえない。機関車が四六時中激しく火花を散らすのに列車が燃えてしまわないのは、まさに驚きだね。

いくらか食べものを持って乗ったけれども、食べ終えてしまってからは沿線の食堂だけがたよりだ。東部の人にはわかりにくいかもしれないな。線路近くにポンと置かれた掘っ立て小屋みたいな建物に、風よけの動物の革がかけられただけのようなものもある。もちろん汚い。カンザス州のダッジシティ近くでは、バッファローの肉が外に積み上げてあって、自分で肉を切り取って焼いてもらうようになっていた。煮込んだ豆は何度も温め直したように見えたし、コーヒーはとてもじゃないけど飲めたもんじゃない。ウイスキーは良質とまではいかないけれども、まだなんとか飲める。

食事の時間がすごく短くて、やっと食べ始めたかと思うと笛が鳴り、汽車に走って戻らなければならないこともよくある。ある乗客は、食堂と車掌がグルになって、わざと食べる時間を与えずに、次の汽車でやってくる哀れな客に同じものを売りつけていると信じていた。その話を鵜呑みにしていいのかどうかはよくわからないけれど、このあたりではなんでもありだという感じはする。この地方は気が弱い人間には向いていない。でも、先を読む力があればチャンスはいくらでもある。もちろん、丈夫な胃も必要だけど」

鉄道が安全はもとより、長距離線のための座り心地のよい座席、食堂車、寝台車を乗客に提供するようになったのはその後長い年月が経ってからである。1867年にジョージ・M・プルマンが披露した食堂車は大きな喝采を浴びたが、それでもすぐには広まらなかった。実際、乗客からの要望があったにもかかわらず、鉄道会社の一部は高い経費を理由に何年ものあいだ食堂車の導入を拒んでいたほどである。

20世紀になろうかというころまでに、鉄道の旅はどこでもほぼ安全で快適になった。実際、裕福な旅行者にとってはきわめつきのぜいたくだった。客車は美しくデザインされ、仕上げられていた。食堂車では一流のレストランや高級ホテルも顔負けの食事が提供された。鉄道の旅はもはや冒険でも試練でもなく、多くの国で、安全で信頼でき、ときに優雅な旅の手段となった。

鉄道の初期には、おそれを知らぬ乗客たちが、飛んでくるすすや床に吐き出されたたばこ汁、がたがたのレールをものともせずに汽車に乗った。黄金時代の豪華列車に乗ることができたなら、どれほど喜んだことだろう。

[書き手]ジェリ・クィンジオ(Jeri Quinzio)
鉄道の食事の歴史物語:蒸気機関車、オリエント急行から新幹線まで / ジェリ・クィンジオ
鉄道の食事の歴史物語:蒸気機関車、オリエント急行から新幹線まで
  • 著者:ジェリ・クィンジオ
  • 翻訳:大槻 敦子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(300ページ)
  • 発売日:2021-12-16
  • ISBN-10:456205980X
  • ISBN-13:978-4562059805
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