分断、格差、民主主義への懐疑…。
戦後、「偉大なるアメリカ」の「理想」へと邁進した
「超大国」アメリカは、
いかにして現在の姿となったのか?
それは時代の痕跡か? 人々の欲望か?
世界に影響を及ぼし続けた、カルチャーの震源地・アメリカ。
時代の空気、人々の欲望の正体を探し求めて。
1970年代から90年代にかけて起きたアメリカの変化を、
大衆の欲望が投影される象徴――映画スクリーンから主に読み取り、
その時代を呼吸した人々の息遣いを証言から感じ取る。
「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」番組プロデューサー 丸山俊一による、
もう一つのアメリカ論、日米関係論。
『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ70-90s「超大国」の憂鬱』より
「はじめに」を公開する。
アメリカ「時代の欲望」の正体を求めて
超大国アメリカの迷走――その起点はどこに?
「君たちの国は、どうしてあの国の技術や文化ばかりをありがたがって、僕らのほうを向いてくれないんだろう。本当はよほど僕らのほうが、気が合って相性はいいはずだと思うんだけどね」
発言の主は、ジャン゠リュック・ゴダール。1994年の晩秋、レマン湖にほど近い彼の仕事場兼別荘でのこと、翌年の映画100年に向けた企画交渉の席で、最後に記念写真を望んだコーディネーターがコダックの一眼レフを取り出した瞬間、彼の口から洩れた言葉だった。フランス「ヌーベルヴァーグの巨匠」は、日仏の文化的な親和性を語りつつ、アメリカという国の「特殊性」と日本人の「錯覚」を一くさりして、ニヤリと笑った。
第二次世界大戦後、様々な歴史の偶然が重なり、最も深い関係性を生むこととなり、幸か不幸か、日本が陰に陽に強い影響を受けることとなったアメリカ。
「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪をひく」
日米の関係史で長らくささやかれてきた言葉だ。もともとは景気の余波、経済的な影響について語られた比喩だったが、かの国が持つ力の大きさを表わすものとして、1962年生まれの筆者にとっては、子どもの頃から様々な場面で、皮膚感覚で馴染んできた表現だ。
「アメリカン・ドリーム」「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」……。戦後、占領国として日本の前に立ち現れた大国は、あるときはひそかに、あるときは公然と大きな影響力を持ち続けてきた。それは、素朴な一庶民の感情からすれば、時に憧れであり、時に反発であり、時に厄介でもあったのだと思う。『ベン・ケーシー』『奥さまは魔女』『ルーシー・ショー』……。まだ白黒の日本のテレビ画面に躍るヒーロー、ヒロインたちの姿はまぶしく、かの国への夢を呼び起こす、と同時に、どこかすべてを言葉にしないと気が済まない、時にロジック過剰、正義を押し付けるかのように感じられる超大国の姿、価値観への違和感にも引き裂かれた。しかし、いずれにせよ、この理念で出来上がった国、「自由と民主主義の実験場」であるかの如き巨大な国家の存在感、ありように揺らぎが生じる日が来ようとは、想像し難かった。
近年目立つ、アメリカの迷走。トランプ現象でクローズアップされることになった分断、格差、リベラルと保守の錯綜、「ポリティカル・コレクトネス疲れ」とも言われる、民主主義という根幹の理念への懐疑など、揺れるアメリカは、多くの人々の目に疑いようがないものになっている。現在のバイデン大統領も、民意をまとめ上げるのに青息吐息のようだ。大国の論理のほつれを感じた時、その起点を9・11に見るべきか? リーマン・ショックに見るべきか? 様々な視点がありうるだろう。
しかし、本質的な変化の端緒、その震源地は、深く密かにそのエネルギーを溜め込んでいるものだ。地底のマグマが噴き出した時、嫌でも現実に直面し、初めて事の重大さに気づいてももう遅い。
時代のルールは密かに書き換えられていく。
この言葉は、既に先行している企画「欲望の資本主義」で初回放送時にナレーションした言葉だが、経済現象のみならず、社会、文化、ある時代の人々の心の形は時代によって作られ、またその心の底にある想いが次の時代を創っていく。
〝時代の欲望〞というにわかには捉え難い存在、この問題意識の連続性で考えた時、人々の、社会の底に眠るエネルギーは、少しずつ様々な事象に微かな影響を与え続ける。そしてある日、突然白日の下に晒された時、進行していた変化の大きさに私たちは愕然とするのだ。
そうした不思議な、ある時代ある社会に形成されるエネルギーをサブカルチャーと、ひとまず呼んでみたら──。こうした精神から、「世界サブカルチャー史」は立ち上がっている。もちろん、映画、ポップス、流行など様々なポップなアイコンもその中には含まれているが、同時に、メインから零れ落ちる、名づけ難い何ものか、としか言いようのない、時代の潮流の中にある淀みを掬い取ろうという試みなのだ。だからこそ、タイトルには「欲望の系譜」という副題をつけた。人々の心の底にある想いが、時に当事者自身も自覚できない欲望の形が社会を、時代を動かしていく。
「時代の欲望」を切り口に、アメリカの過去、未来、現在を捉えなおす
本書では1970年代から90年代にかけて起きたアメリカの変化を、ひとまずは大衆の欲望が投影される象徴とも言うべき映画のスクリーンから主に読み取り、そこにその時代を呼吸した人々の息づかいを証言から感じ取ることを試みる。ポップ、サブ、社会の空気の変遷の物語の試論だ。
たとえば「政治」という領域でリーダーたちに目を向けて70年代、80年代、90年代のアメリカを思い起こすなら、ニクソン、レーガン、クリントンという印象深い大統領たちの顔が思い浮かぶ。彼らのリーダーシップにおいて実現した政策などが国の形を変え、社会の空気を変えることに多大な影響があったことはもちろん言うまでもない。
しかし、彼らもまた時代の空気を吸って過ごした一人のアメリカ国民であり、社会を構成していた一人と考えれば、どうだろう? 社会の底に流れていた人々の想い、空気が、無意識を支配するルールとなって彼らにも影響を与える。大きな流れに飲み込まれていくリーダー。20世紀後半の大衆が時代を動かす主役となった時代には、もはや誰にもコントロールできない渦が生まれては、消えていくかのようだ。
得体の知れない「時代の欲望」という、大きな渦が生み出す物語として、アメリカの現在、過去、未来を、様々な角度から、あえてナナメにも捉え直してみること。その目的の為に、本書では2人の異才の証言、考察をお届けする。
1人目は、ブルース・シュルマン。伝統あるボストン大学の教授職にある1959年生まれの歴史家だ。彼が語るジャンルは幅広い。政治、経済、社会、文化という枠組みは言うに及ばず、ジェンダー、ヒッピー、反戦運動、そして映画についても、一つのシーンの時代的な意味を熱っぽく語ってくれる。まさに大衆の欲望が生み出す時代、社会が乱反射し、様々な領域の変化を生んでいくことへの考察にはうってつけの人物だ。代表作『The Seventies: The Great Shift in AmericanCulture, Society, and Politics(70年代:アメリカ文化、社会、政治の大転換)』の中でも、表題通り「空白」と表現されがちな70年代こそがアメリカ理解の鍵となる重要な年代であった洞察が語られているが、本書の語りでもそのエッセンスを味わうことができると同時に、その変化が80年代、90年代をどんな形で招き寄せたか、たっぷりと語ってもらおう。
もう1人は、カート・アンダーセン。このシリーズ企画につながるようなモヤモヤとした妄想を漠然と抱いていた時に、まさにその邦題からして実感にフィットする、彼の著作に僕が巡りあったのは2019年のことだ。『ファンタジーランド──狂気と幻想のアメリカ500年史』。宗教とビジネスが、テクノロジーとファンタジーが、不思議な融合を遂げる超大国をファンタジーランド(幻想の国)と評した書は、まさにアメリカという国の形を、彼の地に生きる人々が見る「夢」の歴史として捉え、解剖したものだった。著者アンダーセンは過去には「ニューヨーク・マガジン」の編集長も務め、ラジオ・パーソナリティもこなし、現在もブルックリンに暮らす1954年生まれの洒脱なニューヨーカーだ。そこには、矛盾の中にあるアメリカへの、そこに暮らす人々への、愛ある「自己批評」がある。
2人の語りから紡ぎ出される、アメリカのもう一つの姿を、フラットに味わい吟味してみてほしい。「超大国」のもう一つの姿が、あなたの中に、浮かび上がることと思う。
さて、あらためて、70年代から90年代という30年間は、アメリカにとって一体何だったのか?
いざ、想像力の旅へ。
【書き手】丸山俊一
NHK エンタープライズ コンテンツ開発部エグゼクティブ・プロデューサー。1962 年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK 入局。過去に「英語でしゃべらナイト」「爆笑問題のニッポンの教養」「ニッポン戦後サブカルチャー史」などを企画開発、現在も「欲望の資本主義」「欲望の民主主義」「欲望の時代の哲学」などの「欲望」シリーズをはじめ「ネコメンタリー 猫も、