書評

『欧米の隅々: 市河晴子紀行文集』(素粒社)

  • 2023/01/07
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集 / 市河 晴子
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集
  • 著者:市河 晴子
  • 編集:高遠 弘美
  • 出版社:素粒社
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2022-10-28
  • ISBN-10:4910413081
  • ISBN-13:978-4910413082
内容紹介:
渋沢栄一の孫にして、稀代の文章家であった市河晴子。その代表的著作である『欧米の隅々』『米国の旅・日本の旅』から一部を精選。注・解説・年譜等を付す。編者は仏文学者、プルースト翻訳家の高遠弘美。堀江敏幸氏推薦。

驚愕の観察眼、90年ぶりに蘇る

私は渋沢栄一の伝記作者であり、日本人のフランス滞在記のコレクターだが、本書を前にしたとき、深く不明を恥じざるを得なかった。著者の市河晴子が渋沢栄一の長女・歌子と法学者・穂積陳重(のぶしげ)の三女で英語学者・市河三喜(さんき)に嫁いで二男一女をもうけた女性であることは知っていたのだが、その晴子が一九三一年に夫の外国視察旅行に随行して欧米を回った紀行文が『欧米の隅々』として出版され、それが英語に翻訳されて世界的な評判を呼んでいた事実は視野に入っていなかったからだ。しかし、それ以上に驚愕したのはこれほどの傑作が戦後忘れられ、九〇年ぶりに蘇ってわれわれの眼前にあらわれたことだろう。

いや凄いね、これほどの才能が昭和初期の日本に出現していたとは!

まず、特筆すべきは旺盛な好奇心。晴子は北京に着くと早速、名物の横町・胡同(フートン)の周囲を探索に出掛ける。朝まだき、車夫らしき男が歯を磨いている。男はニッコリと笑う。「お追従笑いでなく、ただ人が人に会った時、その男の心が満ち足りていれば自然と顔の筋肉のゆるむ、豊かな微笑だ」。胡同の朝の情景が目に浮かんでくるような一筆書きではあるまいか。
 
満鉄からシベリア鉄道に乗り換えて、ユーラシア大陸を横切り、モスクワに到着すると街に出て商店を観察。「『お客』でなく『買い手』な事は頷けるが、『売り手』が他から見ると『施し手』然と傲慢げだ。対等ということはそれほどむずかしいもんかしら」

パリのホテルの朝食の描写も秀逸。「『ボーンジュール』と頭の天辺から声を出す禿げたポーターが黒地に赤い縞のチョッキ、緑の前かけで、朝のパンを運ぶ。新聞の持って来方が、あわてる事をもってお客への尊敬の表現と心得ているらしい。これはラテン系統のお愛想の仕方だ。朝のパンが美味い。安宿のコーヒーが薄くて水っぽからずうまい時、ああフランスだと思った」
 
晴子をパリで驚かせたのはフランス女性の化粧直しの堂々たる開陳ぶりだ。「こう大びらに恋人だか御亭主だかの前で、以前の紅など拭き取って新規に塗り上げ、男もつくづくそれを眺め眺め話しているのを見ると、顔面美の創造の過程を楽んでいるって気がして、なるほど、その創作の腕こそ誇るべき物だから、作り直すところをお目にかけるに不思議はない」

観察眼の鋭さは室内描写にも発揮される。ガルニエのオペラ座の客席はこう描かれる。「開幕中のほのぐらい暗の中に、柱や天井の沈んだ金色が、凸凹につれて浮び上っていて、音楽が噴水の盛り上るように高まると、その金色がふうと明るく見え、また音楽の沈むにつれて色も遠のくような感じがして、その面白さにとかく天井を眺める」

しかし、これは凄いと唸るのはやはり人物描写だ。劇場で隣に座った老婦人。「婆様のお洒落したのの美というものを初めて見た私は、老女の化粧はすさまじい物の中に蹴込んで済している清少納言に見せつけて、女性美の範囲拡張につとめたいとさえ思って感心して眺めていた」。このような調子でヨーロッパ諸国とアメリカが感受性豊かな三五歳の女性の目を通して描かれてゆく。

昭和の隠れた名著を発掘し、令和の世に送り届けた編者と出版社に拍手を!


欧米の隅々: 市河晴子紀行文集 / 市河 晴子
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集
  • 著者:市河 晴子
  • 編集:高遠 弘美
  • 出版社:素粒社
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2022-10-28
  • ISBN-10:4910413081
  • ISBN-13:978-4910413082
内容紹介:
渋沢栄一の孫にして、稀代の文章家であった市河晴子。その代表的著作である『欧米の隅々』『米国の旅・日本の旅』から一部を精選。注・解説・年譜等を付す。編者は仏文学者、プルースト翻訳家の高遠弘美。堀江敏幸氏推薦。

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