書評

『この世をば〈上〉』(新潮社)

  • 2023/02/22
この世をば〈上〉 / 永井 路子
この世をば〈上〉
  • 著者:永井 路子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(491ページ)
  • 発売日:1986-09-01
  • ISBN-10:410129206X
  • ISBN-13:978-4101292069
内容紹介:
藤原兼家の三男坊に生まれた道長は、才気溢れる長兄道隆、野心家の次兄道兼の影に隠れ、平凡で目立たぬ存在であった。しかし姉詮子の後押しで左大臣の娘倫子と結婚して以来運が開け、いつしか… もっと読む
藤原兼家の三男坊に生まれた道長は、才気溢れる長兄道隆、野心家の次兄道兼の影に隠れ、平凡で目立たぬ存在であった。しかし姉詮子の後押しで左大臣の娘倫子と結婚して以来運が開け、いつしか政権への道を走り始める-。時代の寵児藤原道長の生涯を通し、表面は華やかな王朝の、裏に潜む様々な葛藤と、"王朝カンパニー"とも言うべき素顔の平安朝をあざやかに照らし出した力作長編。

古典理解へ新しい眼

永井路子の歴史小説は、歴史に関する豊富な知識をふまえて、その時代の権力の構造を把握し、権力をめぐるさまざまな人間の葛藤を、現代的な視点から描き出したところに特長がある。種々の政治的変動や政権交替にともない、現代にも共通する人間たちの欲望や愛憎が渦まき、無数のドラマが展開されるが、彼女はそうした政治と人間の関係にするどい目を注ぎ、登場人物たちの内面にも光をあてて、多くの作品をまとめてきた。それらは鎌倉時代をあつかった初期の小説に端的にしめされているが、他の時代をとりあげたものでも、各時代の歴史における権力の構造を、その中心人物や周囲の人々の動きをとおしてとらえ、それがつねに作品の主要なテーマとなっているのだ。

「この世をば」は天皇の外戚として権力をふるい、栄華を誇った藤原道長を主人公として、平安朝を描いた長篇だが、ここでも王朝の政治機構や、政権を手に入れようとして、同族社会の内部で熾烈(しれつ)な争いをくりひろげる人々の姿をあざやかにうつし出し、この時代の様相を幅ひろく読者に教えてくれる。

左大臣源雅信と妻の穆子(ぼくし)が、娘の倫子(りんし)の婿を選ぶ上で、候補者の家柄や身分をいろいろと検討するあたりから作品ははじまり、藤原兼家の三男道長がその一人として浮かび上がる。兼家は息子の道兼と組んで花山帝のひき下ろしを策し、その結果、一条天皇の外祖父として権力をふるうようになったが、雅信はこの一家の強引な性格を嫌い、しかも道長がまだ官位も低く、将来性もうすい点を危ぶんだ。だが穆子は道長を婿とすることに賛意を表し、さらに天皇の母である姉詮子の強力な後おしで、道長と倫子の結婚が実現する。そして道長は権中納言に昇進し、それを機に彼の運もひらけてゆく。

婿入りした道長は倫子との仲もむつまじく、その間に二男四女をもうけるが、一方では風の精を思わせる明子にも心ひかれて結ばれる。彼をとりまく王朝の貴族社会では、官位昇進をめざして権謀のあの手この手が錯綜し、娘を入内(じゅだい)させて政権に近づこうとする動きも多いが、はげしい政争の中で何かにつけて道長をささえてくれたのは母后としてつよい政治力をもつ姉の詮子だった。

おっとりした気質の道長は、長兄道隆のように万事に抜け目なく、またこの兄と覇を競う野望家の次兄道兼とも違い、いつも兄たちの後からついて歩き、ことごとに一喜一憂する平凡児だったが、茫洋とした人間味を感じさせた。父兼家の死後、関白の地位を道隆が継いだが、その道隆が病死すると道隆の子伊周(これちか)の意に反して、政権は道兼に譲られる。だが、おりから疫病が流行し、道兼ほか同族の上位者数人が倒れるという事態がおこり、そのためトップの座はついに道長のもとへころげこむことになった。

道隆から道兼を経て道長へという変転には、伊周の母方である高階(たかしな)一族のつよい抵抗があったが、それをおしきったのは道長が好運に恵まれた結果であり、詮子の活躍もまた大きかった。しかもそのライバルたちは、伊周の弟隆家の従者がおこした暴力事件がもとで失脚してしまう。こうして道長は一手に権力を握り、幾多の内憂外患に出あいながらも、それなりの風格を身につけ、一種の平衡感覚を発揮して、その時代をのりきり、政治も安定する。その中で娘の彰子を入内させ、皇子の誕生を待ち望むが、その願いもやがて達成し、彼にとっての権力の図式が確立する。さらに後には娘の姸子(けんし)や威子をも入内させて、それぞれ太皇太后、皇太后、中宮の三宮を独占して、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧(か)けたることもなしと思へば」の歌を詠んで、その幸福を味わった。だがそれらの喜びの半面で、明子の産んだ息子の顕信が出家し、道長の後ろだてであった東三条院詮子や娘たちが亡くなるなどの悲しみにも出あうのだ。

この作品は九条流の藤原氏の隆盛から道長の死までを追い、その間の諸事件をたどりながら、当時の貴族たちの生活や風習なども織りこみ、道長やその一家をはじめとする時代群像の王朝絵巻を物語っており、紫式部や清少納言など王朝の才女たちの像にもふれている。そして権力の権化とみなされてきた道長を、人間味ゆたかに描き出しているのが興味ぶかい。道長と倫子夫妻の会話なども、現代的な感覚で書かれ、平凡児道長のいきいきとした人間像を造型している。

「この世をば」の執筆にあたって、作者は道長の書いた「御堂関白記」や作中にも登場する名筆で知られた藤原行成の「権記(ごんき)」、藤原実資(さねすけ)の「小右記」、あるいは「栄花物語」や「大鏡」などの古典を丹念に読みこなし、そこから多くのエピソードを拾いあげて、作品世界を創造しているが、そうした豊富な蓄積にもとづき、平安朝の人と社会をとらえ、従来のイメージを破ったところに、この作品の新しさがあるといえよう。

古典を読むシリーズの一冊として刊行された「大鏡」を「この世をば」とあわせて読めば、その理解はさらにふかめられることだろう。永井路子は学生時代、最初に「大鏡」を読んだとき、少しもおもしろくなかったのが、歴史小説を書くようになって読んだおりには、大人の文学の妙味に気づき、新鮮な感動を味わったという。こうした感想を冒頭において、著者は「大鏡」の内容を解説し、その読みどころを述べているが、それらをとおして彼女が「大鏡」の中の随所から作品の素材を得ていることが、あらためてわかる。

「大鏡」は万寿二年(一〇二五)、山城国愛宕(おたぎ)郡紫野(現京都市)の雲林(うりん)院で法華経の講説が行われたおりに、大宅世次(おおやけのよつぎ)と夏山重木(なつやまのしげき)という二人の老翁と夏山の妻の老婆が来あわせ、聞き手の三十歳くらいの侍をまじえて、いろいろ話しあうといった形式で書かれている。「大鏡」の手法を分析して、作者は語り部として庶民が登場するところに、「今昔物語集」と共通の地盤が感じられるといい、作中では万寿二年を「現代」と設定しているが作品の成立年代は院政期に入ってからだとも推定している。「史記」の「本紀」にならって、はじめに十四人の天皇メモがあるが、その中では二条后と業平の恋物語や花山帝退位事件などにふれた部分を興味ぶかく紹介し、また男系中心の系図とは別に、女系・母系中心の系譜の必要性をそこからひき出しているが、これは永井路子の日頃の歴史認識をしめすものであろう。ほかにも「大鏡」の筆者の描写のたしかさや、人間観察のするどさなどを、何カ所かあげ、歴史物語として特殊な個性をもつこの作品の魅力を伝えようとつとめている。

こうした解釈によって、この書は「大鏡」のよき入門書であるだけでなく、古典理解の新しい眼を開いてくれるが、それと同時に、「この世をば」をはじめ王朝を描いた各種の文学を読む上でも、多くの示唆を与えてくれるのではなかろうか。

大鏡 / 永井 路子
大鏡
  • 著者:永井 路子
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(221ページ)
  • 発売日:1984-02-20
  • ISBN-10:4000044613
  • ISBN-13:978-4000044615

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【下巻】
この世をば〈下〉 / 永井 路子
この世をば〈下〉
  • 著者:永井 路子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(464ページ)
  • 発売日:1986-09-01
  • ISBN-10:4101292078
  • ISBN-13:978-4101292076
内容紹介:
30歳で一躍トップの座に踊り出た道長は、兄道隆の子伊周の排撃にも成功した。そして娘の彰子を一条帝に入内させ、やがて待望の男子が生まれる。かくて一手に権力を握った道長は、抜群の平衡感… もっと読む
30歳で一躍トップの座に踊り出た道長は、兄道隆の子伊周の排撃にも成功した。そして娘の彰子を一条帝に入内させ、やがて待望の男子が生まれる。かくて一手に権力を握った道長は、抜群の平衡感覚で時代を乗り切り、"望月の世"を謳歌する-。"権力の権化"という従来のイメージではない、人間味溢れる平凡な男としての藤原道長を描き出し、平安貴族社会を見事に活写する歴史長編。

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この世をば〈上〉 / 永井 路子
この世をば〈上〉
  • 著者:永井 路子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(491ページ)
  • 発売日:1986-09-01
  • ISBN-10:410129206X
  • ISBN-13:978-4101292069
内容紹介:
藤原兼家の三男坊に生まれた道長は、才気溢れる長兄道隆、野心家の次兄道兼の影に隠れ、平凡で目立たぬ存在であった。しかし姉詮子の後押しで左大臣の娘倫子と結婚して以来運が開け、いつしか… もっと読む
藤原兼家の三男坊に生まれた道長は、才気溢れる長兄道隆、野心家の次兄道兼の影に隠れ、平凡で目立たぬ存在であった。しかし姉詮子の後押しで左大臣の娘倫子と結婚して以来運が開け、いつしか政権への道を走り始める-。時代の寵児藤原道長の生涯を通し、表面は華やかな王朝の、裏に潜む様々な葛藤と、"王朝カンパニー"とも言うべき素顔の平安朝をあざやかに照らし出した力作長編。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1984年5月4日

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