書評

『老舎小説全集 第1巻 張さんの哲学;離婚』(学習研究社)

  • 2024/02/10
老舎小説全集 第1巻 張さんの哲学;離婚 / 老舎
老舎小説全集 第1巻 張さんの哲学;離婚
  • 著者:老舎
  • 出版社:学習研究社
  • 装丁:単行本(509ページ)
  • 発売日:1982-01-01
  • ISBN-10:4050045265
  • ISBN-13:978-4050045266

北京の裏町に息づく庶民の像

井上靖に「壷」と題した老舎追悼の小品がある。一九六五年春、中国作家代表団の団長として、老舎が日本を訪れたおりの話だ。日本文芸家協会の主催で、歓迎の午餐会が、朝日新聞社ビルのレストラン・アラスカで開かれた。その席上、老舎は歴史的な故事を物語った。骨董の名品を多くもつある資産家が、事業に失敗してその名品をつぎつぎと手放さなくてはならなくなり、最後には物乞いにまで零落した。しかし一個の壷だけはどうしても売ろうとしなかった。別の金持ちがぜひその壷を欲しいと思い、何度か交渉してみたが、なかなか応じない。そこで庇護しながら相手の死ぬのを待った。だが零落した資産家は、息をひきとるとき、その壷をみじんに砕いて死んだ。

老舎はおそらく座興として物語ったのであろうが、ちょうど向かいあっていた広津和郎が、日本では名品のたぐいは、たとい敵であろうと渡して死ぬのがならわしだ、落城を前にそのようにして死んだ武将は何人もいたと答えた。老舎は一瞬とまどった表情を見せたらしい。その席にいた井上靖は、広津和郎の融通のきかなさをみせつけられた気がしたが、その後、広津の訃報に接し、あれはあれで文学者として筋がとおっていたと考えるようになったという。

そしてさらに老舎の死を伝える記事を読んだとき、井上靖は老舎の死は確実だと思い、「壷を砕いて死んだ」と感じるのである。

老舎はその日本訪問の翌年八月、文革の嵐の中で、連日のように紅衛兵から吊し上げをくい、二十三日にも粛軍や端木洪良ら三十余名の作家たちとともにトラックで拉致され、約二百名の学生から殴打され、いったん帰宅した後ふたたび外出、二十五日午後十時ごろ、北京師範大学南側の太平湖西岸で遺体となって発見された。しかし遺体は濡れてはいなかったという。老舎は、ではどのように壷を抱いて死んだのであろうか。

「老舎小説全集」全十巻は、そのひとつの答えを呈示してくれる。老舎の作品は日本では魯迅、郭沫若と並んでよく読まれてきた。「駱駝祥子」などは数種の訳業がある。しかし小説全集の形でまとめられるのははじめてだ。しかも死後刊行された自伝体の長篇「満州旗人物語」や、抗日戦中の日本軍と遊撃隊の戦闘を描いた「火葬」などの本邦初訳や、「四世同堂」の失われた末尾十三章分(英語版「黄色い嵐」による)の補足などまで収められており、老舎の小説家としての全貌を知るには、欠かせない全集であろう。それに訳者の一人・日下恒夫の「老舎年譜」もありがたい。

五・四以来の新文学の書き手の中で、老舎ほど生粋の北京語を自在にあやつり、流暢な筆致でもって市井の風物や庶民の生態を描破した作家はいない。しかもその底には「幽黙(ユーモア)大師」といわれたほどに、独特なユーモアがあり、語り口の妙は特異なものがあった。

この老舎の作家的資質は、リアリスティックな手法を採るようになっても変わらない。それは、悪人を憎みはするが、悪人にも良いところがあり、善人を愛しはするが、善人にも欠点があるとする彼の人間観から来るものだろう。

満州旗人(日本流にいえば旗本といったところ)の家庭に生まれた老舎は、一歳半で父を失い、長屋ぐらしを送らなければならなかった。そこで車夫とか大道芸人など、いわば、社会の底辺に生きる人々と接し、その環境の中で、後年の作品のモチーフともなる多くの体験を得たにちがいない。さいわいに師範学校へ進み、教育者となったとはいえ、彼の気持ちの中には、北京の裏町に息づく貧しく、たくましく、そして明るい庶民像が焼きついていたと思われる。

「老舎小説全集」付録の月報に掲載されている老舎の子息にあたる舒乙の「老舎の少年時代」という文章が、それらの事情を物語ってくれる。

老舎の処女作は滞英中に執筆し、一九二六年に文学研究会の機関誌「小説月報」に連載された「張さんの哲学」だ。張さんという老獪な中年男は、北京郊外の小さな町で雑貨商、小学校経営、町役場の警備までを兼ね、高利貸までやっている男だが、その貪欲で旧弊な男の生きかたをその周辺に集まる人たちとの対応の中でユーモラスに描いている。

第二作の「趙子曰」は、五・四運動当時の北京の学生の生態を戯画化したものだ。第三作の「馬さん父子」は、ロンドンで骨董店を営む中国人馬父子と、その二人を下宿させるイギリス人母娘を軸に、イギリス人の無知と偏見をユーモアをもって対照的に浮き彫りしたものだった。

しかし老舎のユーモアがペーソスへ、さらに社会的諷刺へと成長してゆくのは、一九三〇年に帰国してからだ。とくに「離婚」「牛天賜物語」「駱駝祥子」となって、老舎の文学的世界は充実する。作品の背景をふたたび知悉している北京へもどしたのも、老舎の小説を豊穣にしたいわれであろう。「離婚」には、北京の庶民の代表ともいえる張兄貴をはじめ、北方人らしい一徹さをもつ李君、南方人らしい話し好きの孫さん等々さまざまな人物が登場し、インテリの俗物性をするどく批判しているが、「駱駝祥子」では、北京に住む人力車夫のアリ地獄を思わせるような哀しい生涯を描き、抗議するすべも知らない声なき民のミゼラブルではあるが、しかしねばりのある姿をあたたかく物語っていた。

だが日中戦争の激化は、老舎を書斎裡にとどめず、華中から重慶へと移動、その間にも文芸界における抗敵協会設立に尽力し、「火葬」を脱稿し、「四世同堂」の第一部を完成している。この三部作からなる大長篇は、四代の家族が同居する大家族を中心に、日本の軍政下にあった北京の生態を幅ひろくとらえたものだった。そして戦後アメリカへ招請され、滞在するうちに第三部を脱稿したが、文革中の十年間にA4判の分厚いノートに書き記されたその草稿は失われてしまったという。滞米中につくられた英語の抄訳本から重訳する形で、それが復元された経緯は、老舎未亡人・胡絜青と子息・舒乙の「破鏡再び合う」(第十巻に収録)にくわしい。

文革による文化破壊は、草稿の散佚にとどまらず、老舎その人をも死へ追いやる悲劇を生んだ。しかしひるがえって考えると、老舎の長篇「大明湖」は、第一次上海事変の際、商務印書館の焼失とともに失われてしまっている。そのことを日本の一読者として忘れるわけにはゆかない。

老舎は壷を砕いて死んだかもしれないが、しかしその壷はりっぱに甦ってきた。壷を抱いて死に、また生きる庶民の作家・老舎の姿をこの「小説全集」から読みとることができよう。
老舎小説全集 第1巻 張さんの哲学;離婚 / 老舎
老舎小説全集 第1巻 張さんの哲学;離婚
  • 著者:老舎
  • 出版社:学習研究社
  • 装丁:単行本(509ページ)
  • 発売日:1982-01-01
  • ISBN-10:4050045265
  • ISBN-13:978-4050045266

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1983年8月19日

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