元禄時代にもいた記録マニア
元禄の時代にも記録マニアはいた。尾張藩の家中で、朝日文左衛門重章(しげあき)という御畳奉行で、知行百石、役料四十俵を支給されていた人物である。御畳奉行というのは、その頃から一般化する畳の需要に応じて新設された役職で、畳の新造、取り替えなどを管理する、いわば用度課長といったポストだ。文左衛門は、特別な逸材などではなく、ごくありふれた下級武士で、酒と博奕が好きで女を愛し、芝居に熱中し、いろいろと武芸の修業に取り組んでみるが、三日坊主で長つづきせず、時には武士の魂である脇差の刀身をすり盗られるなど、尾張方言でいう「ひょぼくれ」に過ぎなかった。
その何の取り得もない武士に一つだけ特技があった。飽きることなく、見、聞きした事柄を詳細に日記に書きつづったことである。彼は当時の世相から身辺の諸雑事、自然現象から巷説、風聞にいたるありとあらゆる事柄を克明に書きとめたのだ。その「鸚鵡鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」と題した日記は、元禄四(一六九一)年六月十三日に筆を起こし、死の前年にあたる享保二(一七一七)年十二月二十九日までの二十六年八カ月、通算八八六三日におよんでいる。文左衛門十八歳から四十五歳までの春秋をふくんでいるのだ。
この日記は尾張藩下級士族の日常を知る上で欠かすことのできない記録だが、同時に世相、風俗、人情などの機微を知る上で貴重なデータであり、当時の人々の生きた素顔をうかがうことができる。元和堰武(げんなえんぶ)から六十余年を経てサムライたちは、サラリーマン化し、太平の安逸をむさぼっている。それだけに何かといえば酒となり、奇妙な刃傷事件や姦通騒ぎも相次ぎ、心中の流行なども後をたたない。文左衛門はそれらの見聞だけでなく自分自身の醜態をもかくし立てすることなく語っており、時には生類あわれみの令などの出る世情をとらえて幕政批判にも及んでいる。
神坂次郎はこの文左衛門の日記に取り憑かれて二十年、詳細なメモを取りながらその記録を読み、この著作をまとめたというが、実際に小説のネタになるような幾多の素材をふくむ興味ぶかい記録である。