正義なんて本当は存在しない。同じように真理もないし愛もない。自我もないし美もないし自由もないし国家もない。すべてが幻想だ。
みなそれは知っている。にもかかわらず、ほとんどのひとはそれらが存在するかのように行動している。それはなにを意味するのか。人間についての学問というのは、究極的にはすべてこの幻想の機能について考える営みだと思う。
その機能は自然科学によって解明できる。人間が正義の観念をもつのは、きっとそのほうが進化の過程で優位だったからだ。真理も愛も自我も美も自由も国家も、おそらく同じように説明できる。ぼくたちは進化の過程で獲得した幻想に囲まれて生きている。唯物論的にはそれだけの話である。だとすれば、遠くない将来、ぼくたちはそれら幻想の脳生理学的メカニズムも解明してしまうだろう。そのときぼくたちは、ぼくたち自身の正義や愛の感覚、それそのものを技術的に操作できるようになるだろう。クリックひとつで、ひとを愛したり、また嫌いになったりすることができるようになるだろう。
現代はそのような未来が現実に見えてきた時代である。みながその可能性に興奮している。ぼくもむかしは興奮していた。
けれども最近では違うふうに考えるようになった。かりにそのような技術的な操作が可能になったとして、ではそこで、だれがだれを愛すべきで、だれを憎むべきなのか、ぼくたちはどのようにして決めるのだろう。人工知能に政治的な判断を委ねるとして、なにとなにを委ねるのか、どのようにして決めるのだろう。幻想を操作するためには、また別の幻想が必要になる。正義や愛のメカニズムを解明し、その操作性を高めたとしても、じつはぼくたち人間はなにひとつ正義や愛の錯覚から解放されはしない。自分たちが幻想の世界に囚われていることを、より厳格に突きつけられるだけだ。
それゆえ、ぼくは、いつごろからか、哲学者の使命は、正義や愛について「説明する」ことにあるのではなく、それらの感覚を「変える」ことにあるのだと考えるようになった。それが本書でいう「訂正」である。
人間は幻想がないと生きていけない。自然科学はそのメカニズムを外部から説明する。本書で参照した言語ゲーム論の比喩を使えば、正義や愛のメカニズムを、まるでゲームを統べるルールであるかのように説明する。
けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。同じルールのもとで、同じゲームをプレイし続けることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力なのではないか。
哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。
思えばそれなりに長く哲学をやってきた。ぼくの最初の本『存在論的、郵便的』は、いまから四半世紀前、1998年に出版されている。
同書にも、本書と同じく短いあとがきが付されている。そこにはすでに、「ひとは何故哲学をするのか。僕は途中から半ば本気で、その大きな問題について考え始めていた」と記されている。ぼくはむかしからずっと同じ悩みを抱えてきた。若いときはその悩みをうまく解くことができなかった。それゆえ30代のころは、なぜ哲学をするのかわからなくなって、著述のスタイルを大きく変えたこともあった。けれどもいまは、かつての問いに明確な答えを与えることができる。それが本書である。
本書はその意味では、52歳のぼくから27歳のぼくに宛てた長い手紙でもある。四半世紀前のぼくは、はたしてこの返信に満足してくれるだろうか。
本書は2021年から2023年まで、足掛け3年の時間をかけて書かれた。執筆を支えてくれた株式会社ゲンロンの仲間たち、そして家族に感謝したい。
2023年6月28日
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