書評
『すべて真夜中の恋人たち』(講談社)
帯には〈孤独な魂がふれあったとき、切なさが生まれた。その哀しみはやがて、かけがえのない光となる。〉とあるけれど、そんな美しい文言で言い尽くせる作品じゃない。不安で不穏。ホラーでホーリー。川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』は、読みながら胸がざわざわしてくる、非常に剣呑な小説なのだ。主人公はフリー校閲者の〈わたし〉こと入江冬子。三十四歳独身。人と会話する時は聞き役に徹し、自分のことは話さない。実際、冬子は自身の本当の気持ちがよくわからないのだし、だから何をしたいのかもわからず、それゆえにこれまで自ら行動を起こしたり、物事を決めたりしたことがほとんどなく、結果、人に話せるほどのエピソードを持たない。実家は長野にあるけれど帰省しない。かといって、旅行もしない。オシャレや化粧にも関心はない。クリスマスイブと重なっている誕生日はいつも独りで過ごし、真夜中に散歩するのを楽しみにしているという、読んでいるこちらが息苦しくなってくるくらい内気で消極的なキャラクターなのだ。
でも、ヒロインが極端な性向の持ち主だから、不安で不穏だと言いたいわけではない。冬子が読者の胸をざわつかせるのは、そんな平坦な感情生活や孤独な日々が、自分を少しずつ損ねていることに気づかない(あるいは、気づこうとしない)からなのだし、一人称小説にもかかわらず、あえて冬子の内面に深く踏み込まずに話を進めていく、作者の淡々と非情なタッチゆえなのである。
案の定、冬子は物語が始まって早々に壊れる兆しを見せる。それまで下戸だったのに、酒を飲むようになるのだ。そして、珍しく積極的な気分で趣味を見つけようかと思いついたのはいいけれど、あろうことか〈財布と冷たい日本酒をたっぷりいれた魔法瓶と携帯電話を入れたトートバッグを肩にさげ〉てカルチャーセンターヘ。あげく、嘔吐。その出来事をきっかけに知り合った三束さんと、やがて定期的に喫茶店で会う関係になる。三束さんは丁寧な話し方をする五十八歳。高校で物理を教えている。冬子は、光の性質について教えてもらったり、クラシックのCDをもらったりする中、〈お互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら〉〈三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思い〉を抱いていく。でも、内気な冬子と紳士的な三束さんの関係は、喫茶店で話をするところから一向に進んでいかない。三束さんへの、自分でもどうしたらいいかわからない思いを抱えながら、冬子の酒量は増えていき――。
高校三年の時に無理矢理処女を奪われて以来セックスをしていない。そもそもこれまで恋をしたことすらなく、書店で女性の生き方啓発本を拾い読みすれば、そうした幸せになる可能性の選択すべてが自分とはまったく無関係なのだという諦念に包まれる冬子。渋谷の人混みの中、雨に打たれながら「ひとりきりなんだ」という認識に絶望する冬子。そんな冬子の孤独な魂の描写がこれでもかと続くくだりは恐怖小説(ホラー)のようにグロテスクなのに、同時に一種独特な聖性(ホーリー)を宿している。〈昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ〉。三束さんから聞いた言葉を大切に胸に抱く冬子こそが、まさに真夜中の光そのものなのだと、読者にも了解できる物語後半の筆致は圧巻だ。
これはたしかに恋愛小説だ。でも、巷間捨てるほどあるメロウな恋愛小説ではない。人間の存在理由(レゾンデートル)につながっていくような、いくつもの深い問いが内包された哲学的な恋愛小説なのである。
【この書評が収録されている書籍】
でも、ヒロインが極端な性向の持ち主だから、不安で不穏だと言いたいわけではない。冬子が読者の胸をざわつかせるのは、そんな平坦な感情生活や孤独な日々が、自分を少しずつ損ねていることに気づかない(あるいは、気づこうとしない)からなのだし、一人称小説にもかかわらず、あえて冬子の内面に深く踏み込まずに話を進めていく、作者の淡々と非情なタッチゆえなのである。
案の定、冬子は物語が始まって早々に壊れる兆しを見せる。それまで下戸だったのに、酒を飲むようになるのだ。そして、珍しく積極的な気分で趣味を見つけようかと思いついたのはいいけれど、あろうことか〈財布と冷たい日本酒をたっぷりいれた魔法瓶と携帯電話を入れたトートバッグを肩にさげ〉てカルチャーセンターヘ。あげく、嘔吐。その出来事をきっかけに知り合った三束さんと、やがて定期的に喫茶店で会う関係になる。三束さんは丁寧な話し方をする五十八歳。高校で物理を教えている。冬子は、光の性質について教えてもらったり、クラシックのCDをもらったりする中、〈お互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら〉〈三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思い〉を抱いていく。でも、内気な冬子と紳士的な三束さんの関係は、喫茶店で話をするところから一向に進んでいかない。三束さんへの、自分でもどうしたらいいかわからない思いを抱えながら、冬子の酒量は増えていき――。
高校三年の時に無理矢理処女を奪われて以来セックスをしていない。そもそもこれまで恋をしたことすらなく、書店で女性の生き方啓発本を拾い読みすれば、そうした幸せになる可能性の選択すべてが自分とはまったく無関係なのだという諦念に包まれる冬子。渋谷の人混みの中、雨に打たれながら「ひとりきりなんだ」という認識に絶望する冬子。そんな冬子の孤独な魂の描写がこれでもかと続くくだりは恐怖小説(ホラー)のようにグロテスクなのに、同時に一種独特な聖性(ホーリー)を宿している。〈昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ〉。三束さんから聞いた言葉を大切に胸に抱く冬子こそが、まさに真夜中の光そのものなのだと、読者にも了解できる物語後半の筆致は圧巻だ。
これはたしかに恋愛小説だ。でも、巷間捨てるほどあるメロウな恋愛小説ではない。人間の存在理由(レゾンデートル)につながっていくような、いくつもの深い問いが内包された哲学的な恋愛小説なのである。
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