書評
『人喰い鬼のお愉しみ』(白水社)
パリにあるそのデパートには「お客様ご要望コーナー」なるガラス張りのブースが設けられていて、苦情を持ちこむ買物客はそこに案内される。
その女性客はかんかん。それはそうだろう。買ったばかりの冷蔵庫を今朝、開けたとたんに熱風を浴びて、眉毛はちりちり、中身は黒焦げなのだから。
早速、ひとりの店員がブースに呼びだされる。品質管理係というもっともらしい係名をもらっているが、じつは上司になじられるいじめられ役を受けもたされている。店員は商品の欠陥の責めを一身に負わされて馘首(かくしゅ)まで申し渡され、泣きだす。客は店員に同情して怒りを忘れ、新しい冷蔵庫との引換証を手にしただけですんなりブースを出ていく。上司はにんまり。馴れ合いの一芝居で一丁上がり、というわけだ。
フランスのベストセラー小説『人喰い鬼のお愉しみ』は、そんな人を食ったエピソードではじまる。ちなみにデパートの名は「ご婦人がたのお愉しみ」。
いかにもありそうな、とニヤリとしていると、いきなり近くで爆発音が上がり、阿鼻叫喚がそれにつづいて、いやおうなしに物語の不穏な成り行きにひきずりこまれる。
主人公も、つまり品質管理係もまさにひきずりこまれる。スケープゴート役の若いバンジャマンを、何かの人身御供にあらためて仕立てようとしているみたいに、彼の身辺で爆弾事件が続発し、ありそうでしかも眉唾な出来事が次々に起こる。犯人はだれか? その動機は?
何でもあり。現代小説の特徴はこれだ。現実世界ではどんなことでも起こりうるから、もともと世界を丸ごと記述するという野望をもっている小説に、何が記されていてもおかしくはない道理だ。
もちろん、小説では、起こったとおりのことが書かれるのではなく、書かれたとおりのことが起こるにすぎない。しかも記述には文法の制約があって、出来事を細い線でたどるしかない。同時多発的な現象の生起が、現実世界の複雑厖大さの原因だから、片肺飛行みたいなものだ。
「……さもないと、びんたを一発喰らわすぞ」。その瞬間、ことが起こった。スローモーションみたいに。デパート全体が凍りついたようだ。……それから、カズヌーヴは約束通りびんたを喰らわされた。だが、喰らわせたのはぼく(バンジャマン)で はない。肩から引きぬかれた女の腕だった。ぼくは、その間欠泉から完璧な線を描いてほとばしる血のカーヴを目で追った。……カズヌーヴの顔も見えた。彼の頰は突然ぶるぶると波紋を描き、衝撃波を顔全体に波及させていった。
現実世界の同時多発には及びもつかないが、ごらんのように小説はどんな紆余曲折だってたどれるし、何なら発明もできる。作者ペナックがやっているのはまさしくそれだ。流行の仮想現実的設定を使って、バンジャマンをこれでもかこれでもかという目にあわせる。
それでもバンジャマンはどうやら生還する。彼は若い身空で父親の違う幼い弟妹を四人も養っている。母親が男を作って家出してはそのたびに身籠ってもどってくるのだ。この弟妹がそろいもそろってくわせ者で、おもしろい。生還したバンジャマンを待っていたのは、またも妊娠してもどってきた母親だ。そんな母親のだらしない姿を美しいと感嘆するお人好しのバンジャマンの頭上に、聖者の後光のようなかげがうっすら浮かぶ。
と見えるのも、この作品がとことんナンセンスだからだ。現代日本の小説にはナンセンス度が足りない。胆に銘ずべき。
【この書評が収録されている書籍】
その女性客はかんかん。それはそうだろう。買ったばかりの冷蔵庫を今朝、開けたとたんに熱風を浴びて、眉毛はちりちり、中身は黒焦げなのだから。
早速、ひとりの店員がブースに呼びだされる。品質管理係というもっともらしい係名をもらっているが、じつは上司になじられるいじめられ役を受けもたされている。店員は商品の欠陥の責めを一身に負わされて馘首(かくしゅ)まで申し渡され、泣きだす。客は店員に同情して怒りを忘れ、新しい冷蔵庫との引換証を手にしただけですんなりブースを出ていく。上司はにんまり。馴れ合いの一芝居で一丁上がり、というわけだ。
フランスのベストセラー小説『人喰い鬼のお愉しみ』は、そんな人を食ったエピソードではじまる。ちなみにデパートの名は「ご婦人がたのお愉しみ」。
いかにもありそうな、とニヤリとしていると、いきなり近くで爆発音が上がり、阿鼻叫喚がそれにつづいて、いやおうなしに物語の不穏な成り行きにひきずりこまれる。
主人公も、つまり品質管理係もまさにひきずりこまれる。スケープゴート役の若いバンジャマンを、何かの人身御供にあらためて仕立てようとしているみたいに、彼の身辺で爆弾事件が続発し、ありそうでしかも眉唾な出来事が次々に起こる。犯人はだれか? その動機は?
何でもあり。現代小説の特徴はこれだ。現実世界ではどんなことでも起こりうるから、もともと世界を丸ごと記述するという野望をもっている小説に、何が記されていてもおかしくはない道理だ。
もちろん、小説では、起こったとおりのことが書かれるのではなく、書かれたとおりのことが起こるにすぎない。しかも記述には文法の制約があって、出来事を細い線でたどるしかない。同時多発的な現象の生起が、現実世界の複雑厖大さの原因だから、片肺飛行みたいなものだ。
「……さもないと、びんたを一発喰らわすぞ」。その瞬間、ことが起こった。スローモーションみたいに。デパート全体が凍りついたようだ。……それから、カズヌーヴは約束通りびんたを喰らわされた。だが、喰らわせたのはぼく(バンジャマン)で はない。肩から引きぬかれた女の腕だった。ぼくは、その間欠泉から完璧な線を描いてほとばしる血のカーヴを目で追った。……カズヌーヴの顔も見えた。彼の頰は突然ぶるぶると波紋を描き、衝撃波を顔全体に波及させていった。
現実世界の同時多発には及びもつかないが、ごらんのように小説はどんな紆余曲折だってたどれるし、何なら発明もできる。作者ペナックがやっているのはまさしくそれだ。流行の仮想現実的設定を使って、バンジャマンをこれでもかこれでもかという目にあわせる。
それでもバンジャマンはどうやら生還する。彼は若い身空で父親の違う幼い弟妹を四人も養っている。母親が男を作って家出してはそのたびに身籠ってもどってくるのだ。この弟妹がそろいもそろってくわせ者で、おもしろい。生還したバンジャマンを待っていたのは、またも妊娠してもどってきた母親だ。そんな母親のだらしない姿を美しいと感嘆するお人好しのバンジャマンの頭上に、聖者の後光のようなかげがうっすら浮かぶ。
と見えるのも、この作品がとことんナンセンスだからだ。現代日本の小説にはナンセンス度が足りない。胆に銘ずべき。
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