内容紹介

『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)

  • 2024/01/30
勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突 / 大木 毅
勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突
  • 著者:大木 毅
  • 出版社:祥伝社
  • 装丁:単行本(272ページ)
  • 発売日:2024-02-01
  • ISBN-10:4396618131
  • ISBN-13:978-4396618131
内容紹介:
第二次世界大戦が終結して以来およそ八十年、戦後すぐに形成され、世界的に横行していた「伝説」や「神話」は、長足の進歩をとげた歴史研究によって打ち砕かれ、あらたな像が描かれつつある… もっと読む
第二次世界大戦が終結して以来およそ八十年、
戦後すぐに形成され、世界的に横行していた「伝説」や「神話」は、
長足の進歩をとげた歴史研究によって打ち砕かれ、あらたな像が描かれつつある。
本書は、そうした成果を取り入れ、主としてヨーロッパ戦線の戦闘を題材として、
ともすれば旧来のイメージにとらわれがちだった日本での認識を刷新せんと試みた。
戦略・作戦・戦術から成る「戦争の諸階層」、「指揮文化」、「戦闘有効性」――用兵思想の概念を用いた議論は、
エル・アラメイン会戦やクルスクの戦い、アルデンヌ攻勢などの大戦闘を縦横無尽に解析し、
戦乱が身近に感じられるようになった現代日本において、軍事の要諦を知るための必携書である。
映画『バルジ大作戦』は印象深い作品だ。ヘンリー・フォンダをはじめとする名優多数が出演するなか、ドイツ軍の先鋒部隊長ヘスラー大佐を演じるロバート・ショウが気を吐き、仇役でありながら他の俳優陣を喰って、事実上の主役となっていたことも忘れがたい。
この『バルジ大作戦』のストーリーはフィクションだが、実際のアルデンヌ攻勢の経緯に照らして、まったく間違いというわけではない。一九四四年十二月から翌四五年一月にかけて、ドイツ軍と連合軍が演じたシーソーゲームは、それほど、スペクタクル映画の原型となるほどにドラマティックである。
しかしながら、アルデンヌ攻勢から八十年。戦史・軍事史研究は、表面的な展開のみならず、戦略・作戦・戦術の三階層からの観察・分析を加えて、本戦役の構造をあきらかにしている。それらは、軍事、もしくは戦いの勝敗を分けるファクターを考える上で、きわめて重要な視点を提示し、かつ知的な関心を喚起している。そこで、アルデンヌ攻勢(連合軍側の呼称にしたがえば「バルジの戦い」)を再検討していくこととしたい。
大木毅著『勝敗の構造』(祥伝社刊)より一部を抜粋・編集してお届けする。

アルデンヌ攻勢は、ヒトラーの無謀な賭けだったのか?

戦略攻勢を企図(きと)するヒトラー

一九四四年秋、ナチス・ドイツは崩壊の淵に立たされていた。
だが、窮境にありながら、総統アドルフ・ヒトラーはなお絶望してはいなかった。連合国は米英ソを核とした同盟を結んではいるけれども、しょせんは寄り合い所帯である。どこかで強力な軍事的打撃を受ければ瓦解し、脱落するメンバーも出てくるはずだ。その動揺を衝ついて、米英等西方の諸国との講和を実現し、しかるのちにドイツ軍の全力を挙げて、再びソ連を叩く。それが、ヒトラーのもくろみであった。
問題は、「どこ」で一撃を加えるかである。
九月十六日、ヒトラーは攻勢の着想を得た。ドイツ東部に置かれていた総統大本営「狼の巣」の定例作戦会議を終えたヒトラーは、ドイツ国防軍最高司令部(OKW)長官ヴィルヘルム・カイテル元帥、OKW統帥幕僚部長(作戦)アルフレート・ヨードル上級大将、陸軍参謀総長代理ハインツ・グデーリアン上級大将、空軍参謀総長代理ヴェルナー・クライペ航空兵大将ら、腹心四人を集めて、より詳細な戦況の検討を行なった。その席上、ヨードルが西部戦線の状況を説明していくなかで、ベルギーとルクセンブルクに広がるアルデンヌ森林地帯は平穏であり、ドイツ軍部隊は同地で休養を取っていると口にしたときであった。それを聞いたヒトラーは、ふいに声をあげたのだ。
「攻勢に出るぞ、ここだ、このアルデンヌからだ。ムーズ川を渡って、アントウェルペンに進撃する」(ジョン・トーランド『バルジ大作戦』)。
唐突に感じられる決断ではあった。しかし、戦術・作戦・戦略の三階層から検討してみると、それをヒトラーの非合理的な気まぐれだったと決めつけることはできない。
まず戦術的には、連合軍のいちばん手薄な正面を叩くがゆえの有利さが期待できる。当時、アルデンヌが森林地帯で、大規模な部隊の行動が難しいことから、この方面を担当していたアメリカ軍は、ドイツ軍が攻撃をかけてくることはないと判断していた。そのため、米軍がアルデンヌに配置していたのは、消耗し、休養・再編成を必要とする部隊や新編のルーキー部隊であり、戦線の兵力密度も低く、防備も脆弱だったのだ。そこにドイツ軍の精鋭部隊をぶつければ、米軍戦線はたちまち崩壊し、速やかなる突破に成功する可能性がある。
また、作戦次元でみると、アルデンヌ地域の北西を流れる自然の障壁ムーズ川を越え、主要補給港であるベルギーのアントウェルペンを奪取できれば、連合軍の兵站は機能しなくなり、しかも、ドイツ軍の突進によって分断された敵を撃滅することもたやすい。かつて一九四〇年に、ドイツ軍はところも同じアルデンヌ森林を突破し、英仏海峡諸港に進撃して、連合軍の補給路を断つとともに、彼らの主力部隊を各個撃破、ダンケルク撤退とフランス降伏という苦杯を嘗めさせた。ヒトラーは、かくのごとき鮮やかな機動戦を再現することを夢見たのである。
さらに、そうした戦術・作戦次元の勝利は、戦略次元の成功に直結する。主要補給港アントウェルペンを失い、有力部隊を撃滅された連合軍の足並みは乱れ、ドイツとの講和を求めて、同盟から脱落する国も出てくるだろう。かくて外交政策により西部で平和を得たドイツは、持てる戦力をすべて東方に向け、宿敵ソ連を打倒する。
ヒトラーは、かくのごとき思考をめぐらせ、敵軍を消耗させたり、有利な態勢をつくることを目的とする作戦・戦術レベルのそれではなく、戦争に勝利するための攻勢、「戦略攻勢」を企図したのだった。


総統へのアンチテーゼ

しかし、結論を先取りしていうならば、ヒトラーの計算は、誤った前提に立つものだった。そうした、いわば総統へのアンチテーゼを、やはり戦略・作戦・戦術の三階層から述べてみよう。
戦術的には、アルデンヌは、ヒトラーが予想していた以上の天然の障壁だった。深い森や河川は、路外走行機能に優れた装軌(キャタピラ)車輛でも踏破困難で、機動は道路網の確保いかんに大きく左右される。ところが、そのようなネットワークは、道路の結節点となる都市や橋梁を押さえることにより、少数部隊でもたやすく機能不全におちいらせることができるのだ。なるほど、一九四〇年の西方侵攻攻勢において、ドイツ軍はアルデンヌの森林を迅速に突破、ムーズ川の渡河までも達成した。けれども、それを可能としたのは、当時アルデンヌ正面を守っていたベルギー・フランス部隊に対してドイツ軍が有していた、質量ともの優勢と圧倒的な空軍力であった。一九四四年のドイツ軍には、そのいずれもなかったから、いざ攻勢をはじめてみると、進撃はそこかしこで引っかかったのである。
作戦的には、これだけの規模の突破進撃を実行するには、兵力が足りなかった。ドイツ軍はアルデンヌ正面から北西に前進、アントウェルペンに向けて回廊状の突出部を形成していくわけであるが、その両側面には有力な連合軍部隊がいる。北には、主としてイギリス軍とカナダ軍から成る第二一軍集団(バーナード・ロー・モントゴメリー指揮。モントゴメリーは一九四四年九月に元帥に進級していた)、南にはジョージ・S・パットン中将率いる米第三軍だ。これらが南北から挟撃にかかった場合に備えて、延びていく側面を掩護(えんご)する予備兵力が必要であるにもかかわらず、そうした部隊はほとんど用意されていなかった。したがって、アルデンヌ攻勢が史実よりも成功して、ムーズ川を渡河しての進撃に移っていたとしても、それらのドイツ軍部隊は、モントゴメリーとパットンの反撃により分断され、孤立する運命にあったと考えてさしつかえあるまい。
そして、何よりもヒトラーは、連合軍首脳部の指揮統帥能力ならびに政治的団結を過小評価するという、戦略的なミスを犯していた。予想外かつ大胆なドイツ軍の攻勢を受けて、連合軍の将軍たちは混乱するばかりで、ろくな手を打てないだろうというのが総統の読みだったのだが、実際の戦役の経緯が示すように、彼らは素早く、しかも適切な反応を示したのである。
加えて、連合国の同盟は、この攻勢により米陸軍史上まれな大規模部隊の降伏という事態を含む深刻な打撃を受けたにもかかわらず、びくともしなかった。すなわち、ヒトラーの判断と決定は、一定の成算こそ認められるものの、作戦・戦術的な手段を充分に有さず、敵の戦略的安定性を見誤っており、攻勢は発動前から多数の失敗のファクターを内包していたといえよう。


参謀将校たちの最後の栄光

一九四四年九月二十五日、ヒトラーはヨードルOKW統帥幕僚部長に、アルデンヌ攻勢の作戦計画策定を命じた。それを受けて起案された計画「クリストローゼ」(ドイツ語でクリスマスローズの意)が十月十一日に出される。この時点で、作戦の骨子はすでに定まっていた。攻勢兵力としては、第六SS(親衛隊)装甲軍、第五装甲軍、第七軍の三個軍を投入する。総兵力は装甲師団十二個ならびに歩兵師団十八個を予定していた。これらが、ドイツ軍にとっては天敵となっている連合軍の航空戦力が活動できない悪天候の時期を選んで、アルデンヌの米軍戦線を突破、敵を撃滅しつつムーズ川を渡り、一週間以内にアントウェルペンに突進するのである。
翌十二日朝、この作戦計画をヨードルから手渡されたヒトラーは、秘匿名称を「クリストローゼ」から「ラインの守り」に変更した。彼は、「ラインの守り」作戦を十一月中に開始したいと望んでいたが、それは不可能であり、結局発動日は十二月十六日に決まる。
しかしながら、「ラインの守り」作戦の準備と欺騙(ぎへん)工作はきわめて綿密で、ナポレオン戦争以来のプロイセン・ドイツ参謀将校たちの組織力が遺憾(いかん)なく発揮され、その最後の栄光を示したものであった。
作戦に参加する部隊は、東部ドイツや中欧各地などから鉄道によって集結させなければならなかったけれども、連合軍の空襲が予想される日中には、列車を森林やトンネルなどの待避所に隠し、夜間に移動して積荷の装備や物資、兵員を目的地で下ろすといった措置が取られた。高度の計画性と臨機応変に対応する能力を同時に要求される困難な作業であるにもかかわらず、ドイツ国防軍はこれをみごとにやってのけたのだ。
機密保持も厳重で、作戦計画を知るのはヒトラーとごく一部の高級軍人のみであったことはもちろん、作戦準備のための情報伝達も、有線・無線を問わず通信機材の使用を禁じ、特別に秘密厳守を宣誓させた将校に関連文書を運搬させた。皮肉なことに、西部戦線が大幅に後退し、ドイツ本国との距離が縮まったために、こうした昔ながらのやり方で、伝令を機能させることが可能になったのである。とはいえ、この措置は思いがけない効果をもたらした。というのは、連合軍はドイツ軍の無線暗号通信を傍受解読し、おおいに作戦立案に役立てていたのだが、それが断たれたために、アルデンヌ攻勢のきざしをつかむことができなかったのだ。
かくて、ドイツ軍は最後の戦略攻勢への準備を完了した。彼らが完全な奇襲に成功したことは、連合軍に衝撃を――ドイツ軍の実力からすれば、過大な衝撃を与えることになる。


「ラインの守り」作戦開始

日付が一九四四年十二月十五日から十六日に変わるころ、ほとんど戦闘がなく、平穏な情勢が続いていることから「幽霊戦線」と呼ばれていたアルデンヌ正面は、やはり静謐を保っていた。しかし、それから数時間のうちに「幽霊戦線」は、砲撃の轟音とキャタピラの響きに包まれ、一大戦闘のちまたと化した。「ラインの守り」作戦が開始されたのだ。
ドイツ軍の北翼を担当し、攻勢の主役となるのは、ヨーゼフ・「ゼップ」・ディートリヒSS上級大将率いる第六SS装甲軍である。ヒトラーの護衛隊から出発し、戦争中に拡大されて、陸海空三軍につぐ第四の軍となった武装親衛隊を中心とする同装甲軍は、弱体な米軍部隊を蹴散らして、北西に旋回、北側面を確保しつつアントウェルペンに突進することになっていた。
その南には、東部戦線で装甲部隊運用の名手として名を馳せた男爵ハッソー・フォン・マントイフェル装甲兵大将指揮の第五装甲軍が配置されている。同装甲軍は第六SS装甲軍の南を併走するかたちで進撃、ムーズ川を渡河して、やはりアントウェルペンに向かう。
さらに、もっとも南、ドイツ軍からみて左翼には、歩兵中心の第七軍が置かれた。司令官は、西方侵攻や対ソ戦で経験を積んだベテラン、エーリヒ・ブランデンベルガー装甲兵大将だ。この第七軍は、北の第六SS・第五装甲の両軍が前進するにつれて、あらわになってしまう南側面をカバーし、予想される米軍の反撃に対応するものとされていた。
すでに大勢は決した、戦争はもう終わりだとばかり思い込んでいた米軍の戦線は、各地でくずれた。Ⅴ号「パンター」、Ⅵ号「ティーガー」、Ⅵ号Ⅱ型「ケーニヒスティーガー」といった強力な戦車を前面に立てたドイツ軍は猛進し、それでもなお抵抗する米軍の拠点を迂回、孤立させる。この初期段階でドイツ軍が上げた最大の成果は、アメリカ第一〇六歩兵師団の撃破であったろう。戦線に投入されたばかりで、経験に乏しいにもかかわらず、第一〇六歩兵師団は真正面からドイツ軍の攻撃にさらされることになり、その隷下(れいか)にあった歩兵連隊二個が包囲される。彼らは十二月十九日に降伏し、およそ九千名が捕虜となった。一九四二年にフィリピンのバターン半島において米軍守備隊が日本軍に降伏して以来の、米陸軍史上まれにみる敗北であった。
また、少数ながらも米軍後方の要点を押さえるために空挺部隊も降下したし(男爵フリードリヒ・フォン・デア・ハイテ空軍中佐指揮の「シュテッサー(灰鷹)」作戦)、米軍の軍服・装備を着用した特殊部隊による攪乱作戦(オットー・スコルツェニーSS中佐指揮の「グライフ」作戦。「グライフ」は、獅子の身体に鷲の翼を持つ伝説の動物)も実行された。これらは実質的な戦果を得たわけではなかったが、後方にドイツ軍が跳梁している、味方のように見える者でも信用できないとの疑心暗鬼を連合軍に生じさせ、少なからぬ混乱を巻き起こした。
こうした成功は連合軍を眩惑(げんわく)し、その実態以上に大規模な攻勢が実行されているかのごとくに錯覚させた。一九四〇年にフランスを崩壊させたドイツ軍の猛進撃の再現という、連合軍にとっての悪夢が突きつけられたかと思われたのだ。この、当時連合軍の将兵がおちいった一種のパニックとドイツ兵が抱いたであろう希望は、すべての結果を知る後世のわれわれにはなかなか実感しにくいのであるが――虚像はしょせん現実たり得ない。


つまずいていた攻勢

いかに好調にみえようとも、「ラインの守り」作戦は緒戦の段階でつまずいていたのである。たしかに、アルデンヌ攻勢は初動で大きな戦果を上げ、投入された装甲部隊は猛進撃を示しはした。さはさりながら、所期の戦略目標からすれば、それほどの戦果でも少なすぎたし、前進も遅すぎたのであった。
ヒトラー総統は、ナチス・ドイツの総力を結集した攻撃の前には、遭遇する連合軍部隊も鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、言うに足る抵抗を受けることもなく、アントウェルペンに到達し得ると確信していた。ところが、戦線こそ寸断されたものの、米軍部隊は孤立しながらもなお抵抗を続けており、ドイツ軍の行き足にブレーキをかけていたのだ。
そもそも、ヨードルが立てた計画では、アルデンヌ正面のほぼ全域にわたって突破、四十八時間以内にムーズ川を渡る予定だった。しかし、北の第六SS装甲軍の戦区では、歩兵師団が装甲部隊のための突破口を開くことに失敗、控置されていた装甲車輛の縦列は森林を迂回することもままならず、道路には大渋滞が発生するというありさまだったのである。南の第五装甲軍は、比較的地形が平坦だったこと、また軍司令官マントイフェルが早期に装甲部隊を投入したことが幸いし、大きく前進することができたが、それとても作戦計画通りというには程遠かった。なお、こうした経緯から、攻勢の重点は、当初主役を務めるはずだった第六SS装甲軍から第五装甲軍へと移された。
結果として、ドイツ軍は米軍戦線の間隙を縫って長駆進撃(ヨアヒム・「ヨーヘン」・パイパーSS中佐の率いる戦車、装甲擲弾兵(機械化歩兵)などの混成部隊「パイパー戦隊」の前進はその典型であった)、各地で米軍部隊を捕捉・急襲してはいたものの、補給・補充や増援部隊を送る道路の結節点の多くを奪取できないままであったから、たとえるなら槍の穂先だけが突き出された状態で、本格的・組織的な攻撃を行なうことは困難だった。ドイツ装甲部隊は、後方の道路ネットワークというスプリング・ボードが確保されないままに跳躍を強いられたのであった。
結局のところ、アルデンヌ攻勢は見せかけの勝利にもかかわらず、初期段階で戦略・作戦的成功の可能性を失っていたのである。

[書き手]大木毅
勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突 / 大木 毅
勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突
  • 著者:大木 毅
  • 出版社:祥伝社
  • 装丁:単行本(272ページ)
  • 発売日:2024-02-01
  • ISBN-10:4396618131
  • ISBN-13:978-4396618131
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第二次世界大戦が終結して以来およそ八十年、戦後すぐに形成され、世界的に横行していた「伝説」や「神話」は、長足の進歩をとげた歴史研究によって打ち砕かれ、あらたな像が描かれつつある… もっと読む
第二次世界大戦が終結して以来およそ八十年、
戦後すぐに形成され、世界的に横行していた「伝説」や「神話」は、
長足の進歩をとげた歴史研究によって打ち砕かれ、あらたな像が描かれつつある。
本書は、そうした成果を取り入れ、主としてヨーロッパ戦線の戦闘を題材として、
ともすれば旧来のイメージにとらわれがちだった日本での認識を刷新せんと試みた。
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