事実が着地する「真実」の読了感
暴力を振るったわけじゃない。脅すようなことを言った覚えもない。自然だったからだ。だが、自分が感じていることを彼女たちも感じていると確信していたのは間違いだったのかもしれない、そうだとしたら謝罪する。セクハラ疑惑で告発されたカルチャーセンターの講師が言うセリフであり、公にするコメントである。
もと編集者である月島は、カルチャーセンターで小説講座を持っている。受講枠が空かないほど人気なのは、この講座からプロの作家を輩出しているからだ。その月島による性被害を、もと受講生が告発する。七年前、小説の話をしたいと彼女は月島にホテルに呼び出され、数回にわたって性行為を強要された。それにたいして月島は上記のことを言うわけである。
この小説はじつに多くの立場の人たちの想念と声によって紡がれる。意を決して告発した咲歩と、告発された月島ばかりでなく、咲歩の夫、月島の妻と娘、受講生たち、月島の講座からデビューした小説家、さらにはセクハラ告発の記事を目にした、月島や告発者とはまったく関係のない人たちの声までも。彼らはだれかに向かって、あるいはSNSで、発言したり、考えたりする。告発者の勇気をたたえる声もあるが、そればかりではない。なぜ七年前のことを今訴えるのか。恋愛ではなかったのか。彼女の打算ではなかったのか。罠(わな)にはめられたのは講師ではないのか。真剣な考察もあれば、明日には忘れるほどの軽い考えや発言も、小説はつぶさに取り上げる。
事実はひとつしかない。月島は教え子をホテルに呼び出し、性行為を強要した。けれど小説は、そのひとつの事実が、大勢の想念と声によって、想像もし得ないくらいたくさんの事実として存在していくさまを描く。それぞれの事実のあいだには、けっして埋められない深い距離がある。小説を心から愛し、教え子たちの書く力を伸ばしたいと真剣に願う月島に悪意はなく、冒頭のせりふはいいわけでもなんでもなくて彼の事実だ。暴力も振るっていないし薬を盛ったわけでもない。彼女が、いい小説を書きたくて、自分の足でホテルにやってきたのだ。だからそれに応えた。彼の事実と告発者の事実は永遠に重ならない。
読みながら私がもっともおそれおののいたのは、ここに描かれるだれの声も想念も、私に理解できたことだ。なぜ告発までに七年を要したのかということも、同時に何が悪いのかわからない月島の気持ちすらも。共感というのではなく、それぞれの事実のありように納得させられてしまう。それこそがこの小説の企みなのかもしれない。なぜならこれらのどの声も想念も、理解できないことのほうがおそろしいように思えてくるからだ。月島を闇雲(やみくも)に糾弾するだけでは、世のなかは変わらないと思うからだ。
終盤で、幾多の想念と声によって紡がれた事実は、たったひとつの「真実」に着地する。そのとき私たち読み手は、このタイトルをあらためて深く知ることになる。それはもう遠い他人ごとではなくて、ひりつくような激しい痛みとして、私たちの内に刻まれる。それでも読後感がつらくないのは、この痛みを知ることで、私たちの生きる場所が確実に変わっていくはずだと信じられるからだろう。