他者の〈わからなさ〉を問いのはじまりとして――森崎和江を読む
近年、森崎和江の著作の復刊が立てつづけにおこなわれている。この一〇年ほどだけでも、『からゆきさん』(朝日文庫、二〇一六年)、『第三の性』(河出書房新社、二〇一七年)、『まっくら』(岩波文庫、二〇二一年)、『非所有の所有』、『闘いとエロス』(ともに月曜社、二〇二二年)、『慶州は母の呼び声』(ちくま文庫、二〇二三年)、『買春王国の女たち』(論創社、二〇二四年)といった著作が復刊されているが、その多くが森崎のキャリアのなかでは初期にあたる筑豊時代の著作であることに、ひとつの傾向が認められるだろう。そして、本書は、一般的には詩人や作家として知られてきたこの森崎和江の、筑豊時代における思想の展開に注目し、テクストを読み解いていくものである。同時に、本書はこの〈現在〉という地点から森崎の思想をどのように読みえるのか、またいかにしてその思想をいまに継承しえるのかという問題を考えていこうとする著作でもある。
いまこの時代に森崎を読むひとは、なにを求めてかの女の本を手にとるのだろう。森崎が扱った多種多様なテーマを踏まえれば、まとまった答えは必ずしもないはずだ。さしあたり、〈女性/女/おんな〉とはなにかを考えたいというところにいくらかの一致点があるだろうか。
それでは、本書の筆者であるわたしの場合はなんであるのか――なんであったのか。とはいえ、こうした問いには唯一絶対の答え、すなわち起源となるようなものがあるとも思えない。もちろん、きっかけとなった理由や出来事はあっても、それらは大小を問わない複数のものが束となって存在することでひとつの塊のようにみえているに過ぎず、ただ唯一の理由や出来事というものは存在しないだろう(過去遡及的に見出されるかもしれない本書の〈はじまり〉については、「あとがき」でふれている)。
そうしたことを踏まえたうえで、複数存在するであろう理由や出来事のうちのひとつを仮にここであげてみるとすれば、それは森崎が〈わからなさ〉に向きあった書き手であったからのように思える。
たとえば、アイデンティティという点でみたとき、森崎のそれと、森崎のテクストの読み手であり本書の書き手であるわたしのそれでは、必ずしも共通点は多くない。まったく同じアイデンティティの経験をもった人がいないのは当然だとしても、わたしと森崎の距離はあまり近いものではなく、わたし自身がいつも〈わからなさ〉を抱えながら森崎のテクストに接してきたともいえる。
他方で、森崎という書き手はみずからの〈わからなさ〉を決して誤魔化そうとはしなかったひとでもある。仮に、同じ社会的なアイデンティティをもっていても、その経験を完全に同一視することができないという事実に森崎はいつも自覚的であった。森崎は他者を自己に同一化することも、またその逆に、良心ゆえに完全に切り離してしまうことにも否定的であり批判的でありつづけた。森崎にとって〈わからなさ〉とはゴールではなく問いのはじまりとなるものであり、なおかつそのことをみずからのテクストに書きとめてきた点は、森崎の言葉と思想の魅力でありその重要性につながってもいるだろう。わかるとも、わからないとも言い切ることなく、わかろうとするその過程でしかわからないことがあるとすれば、わたしもまたそのような過程に身を置きながら本書を書いていくといえる。
ところで、森崎の文章はなんとも読みづらいものがある。これは、森崎の文章に親しんできた人びとにとっても共通理解なのではないだろうか。
さしあたり、ふたつの理由が頭に浮かぶ。ひとつには、特に初期の文章がそうであるように、書かれていることがあまりに難解だという点があげられる。わたし自身も、いつ何時読んでも意味がよくわからないという文章が数多くある。もうひとつには、これもよく指摘されることだが、たとえ字面としては意味を理解できるような文章でさえも、実のところそこにどのような意味を含みもたせているのかがうまく掴めず、わかったようでわからないという点がある。
わかるようでわからず、結局よくわからないもの。ただそれでも、愚直に、繰り返しありとあらゆる文章を読みつづけていくと、ひとつひとつの言葉の意味や輪郭が次第に掴めるようにもなっていく。同時に、書かれた言葉をどのような場に置きなおせば、それをよく読み解くことができるのかもおぼろげにだがわかっていく。これは、単に言葉をそれが書かれた当時の文脈に差し戻せばいいというものではない。その言葉がもっともよく響いていく、それにふさわしい場とはなにかを考えていく作業のことだ。
森崎の筑豊時代のテクストにとってのそれは、〈集団〉と〈闘争〉という場であるとわたしには思えた。その理由は、筑豊時代の森崎が〈闘士〉のような存在であったからではなく、むしろ運動や闘争といったものに全面的には馴染みえないながらも、そこに身を投じることなしにはみずからが生きていけないという切実な思いを抱えていたことが、次第にみえてくるようになったからである。
そのうえで、あらかじめ断っておけば本書は、現在の社会や世界が抱えている困難や課題にたいする、ストレートな答えを森崎その人に見出そうとするものではない。その答えは結局のところわたしたちが自分たち自身で探っていくほかないものであり、むしろある思想家にわかりやすい解や答えを求めるような態度には基本的に批判的でありたいとわたし自身は願っている。そして、森崎が提示してくれるものがあるとすれば、それはわたしたちに求められる問いの構えや方法であるといえるのではないだろうか。みずからの〈わからなさ〉に向きあうことには正解もゴールもないのであり、だがその手がかりとしての方法を、森崎の言葉と思想は指し示している。
わたしたちは、当然だが誰しもみな「森崎和江」になることはできない。だが、森崎のように考えること、森崎とともに考えることはできるかもしれないのであり、本書がそのひとつの手がかりとなることを願ってやまない。
[書き手]
大畑凜(おおはた・りん)
1993年生まれ。専攻は社会思想、戦後思想。大阪府立大学大学院単位取得退学。博士(人間科学)。現在、日本学術振興会特別研究員PD、大阪大学特任研究員。共著に『軍事的暴力を問う』(青弓社)、共訳に、デイヴィッド・ライアン『ジーザス・イン・ディズニーランド』(新教出版社)がある。