国際的なジャーナリストになりたかった。TBSのワシントン支局長にアメリカでのポストを得たいと相談した。前向きの返事があった。ビザを取る打ち合わせで居酒屋と寿司屋に行った。泥酔して気がついたらホテルの部屋で事におよばれていたーーこれが著者の経験したことである。
読んでいて自分のことのように胸が痛い。私はレイプされた事はない。しかし社会に出た頃、セクハラは受けた。同じように感じた。まず混乱する。どうしたらいいのだろう。なかったことにしたい。親にも知られたくない。人前では取り繕う。何か言えば仕事を失うのではないかと怖い。
そうした混乱の中で著者は勇気を出して病院に行き、警察へ行き、泥酔者をレイプする「準強姦」を立証する孤独な戦いを始める。何と言っても実名で本を書いた勇気を讃えたい。
著者は相手を断罪するのではなく、あったこと、当事者として感じたことを冷静に書き綴る。なぜ警察は何度も同じ体験を繰り返し語らせるのか。病院やNPOの相談窓口も、なぜ傷ついた被害者に寄り添った対応ができないのか。これから同じことが起きないために大事なことだ。
「性行為があったかどうか。合意があったかどうか」が争点だ。前者は相手も認めている。が、「合意がなかった」ことを証明するのは難しい。二人だけのブラックボックスだからだ。それでも警察はタクシーの運転手の証言やホテルの監視映像から立件の確証を得た。逮捕状が請求され、裁判所も発行を認めた。だが逮捕は行われなかった。その背後には、総理の友人である加害者を守ろうとする大きな政治力が動いたのではないかと疑われる。
これを追求するのはジャーナリストの仕事なはずだ。しかしなぜか沈黙している。行政立法司法の三権が癒着し、しかもジャーナリストたちが職責を全うしないのなら、国民が連帯して社会を変えていくしかないのだろう。 NHKの番組によれば、2人きりで食事をしたり、お酒を飲んだりしたら、「性行為への同意があったと思われても仕方がない」と考える人が日本には少なからずいると言う。冗談じゃない。そんな社会は変わるべきだ。
夏目漱石の言葉を思い出す。「いくら巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」(「坊ちゃん」)。詩織さん、過去にも現在にも未来にも、あなたの味方はいるよ。