どこかを見つめているが、一体、何を考えているのか。夜になれば、頭上に航空障害灯が点灯する。特撮ものの世界だ。わざわざ訪ね、文字通り仰天するが、その近くで平然と暮らしている人たちがいる。当たり前だ。驚いてなんかいられない。その温度差に静かに興奮してしまう。
『大観音の傾き』(山野辺太郎著・中央公論新社・2090円)は、東北の大きな街の丘の上にそびえ立つ白い大観音と、その近くの出張所で働く市役所職員・高村修司が主役の小説。大震災を機に、大観音が傾いていると主張する住民たちが現れ、その胎内への入り口付近にある竜の牙を押すことで傾きを戻そうとする。
傾いているはずがないだろう。じっくり見る。傾いているような気もしてくる。このまま倒れてしまうのか。爆破するのはどうかとの案まで出る。そもそも、あの震災を経て、今、大観音の気持ちはいかなるものなのか。
「わたしがいねくなったら、どうなるんだべ」「んだども、自分でわかってるんだ。わたしが無力だってこと。正真正銘のまがいものだってこと」
時折、大観音の声が聞こえてくる。こんなことになるなんて思っていなかった、でも、ここで見守るしかない。こだまする声。淡路島の大観音は何を思うのか。牛久大仏はどうか。大観音たちに人間味を感じ始める摩訶不思議。
尊いとされているとは限らない、そんなものが微動だにせずに居座る。あの大観音は、私たちの何を吸い取っているのだろう。いや、与えてくれるのだろう。大観音に感じる悲哀はどこから来るのだろう。読み進めるうちに大観音と一体化し始める自分に気づく。簡素に説明し難い小説だが、体の深部に潜り込んでくる。