書評
『火星の人』(早川書房)
茶目っ気たっぷりの科学者
有人火星探査のミッション中の事故で宇宙飛行士のマークは、たった1人で火星に取り残される。次に火星探査船が来るのは4年後。だが、食料は1年分しかない。本作は日本で今年公開された映画『オデッセイ』の原作でもある、火星での生活を題材にしたSF小説である。ひとことで言えば、火星版の『ロビンソン・クルーソー』だが、ネットでは火星版『鉄腕DASH』との評判に。農業から土木まで、いろいろなスキルを身につける「TOKIO」の活躍する人気番組同様、何もない火星から生還するため、主人公は科学知識と困難に向かう勇気で極限状態を生き延びる。
本作で起こる“宇宙でのアクシデント”には、技術的な裏打ちに基づいたリアリティーが備わる。そこがおもしろさ。
植物学者でもあるマークは、火星上の居住施設「ハブ」の中で芋の栽培を画策する。農業には大量の水が必要。彼は大気からCO2を集め、酸素供給機に入れて酸素を生み出す。水素は、推進剤のヒドラジンから遊離させる。ただし、水素と酸素を結合させるためには、燃焼が必要。火災を避けるため、「ハブ」には燃えないものしかない。彼は必死で可燃物を探すのだが……といった具合だ。
デフォーの小説の主人公クルーソーは、勤勉で計画通りに漂流生活を進めた。経済史学者の大塚久雄はそんな彼に合理的、科学的な「近代人」の原型を見いだした。だが、この小説のマークは、全世界に公開された通信に「おっぱい」の絵文字を紛れ込ませ、NASAの調査委員に下品な悪態を吐く茶目(ちゃめ)っ気の持ち主。読み進めるに従い、マークを応援してしまうのは、十分に科学的で合理的でありながら、そこにおさまらない部分があるから。キャラの魅力は、映画より小説版が圧勝である。
朝日新聞 2016年3月20日
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