書評
『火星転移〈上〉』(早川書房)
火星に行きたい!
書いたことがあるかもしれないが、ぼくは小さい頃、天文学者になりたかった。小学生の時、いちばん熱心に読んだのが野尻抱影の天文関係の啓蒙書(いまでもあるのだろうか)にジョージ・ガモフの宇宙理論の啓蒙書(これはいまでも手に入るだろう)、中学入学と同時に天文部に入部、愛読書が天文年鑑とパロマ山天文台写真集、放課後はいつも校舎の屋上で月や木星の観測、家に帰ると読みふけったのがF・ブラウンにハインラインにE・R・バロウズにブラッドベリのSFという典型的天文少年だった。なにを隠そう、去年思い立って十五センチの反射式望遠鏡を購入、三十数年ぶりで月のクレーターやオリオンの大星雲を見学(?)して興奮、やはり天文少年の血は消えないのか。
しかし天体愛好者とSF愛好者は一致するのかと疑問に思われるかもしれないが、これが意外と一致するのではないだろうか。そもそも「愛好者」というところがミソ。「愛好者」=ファンはいっさいの批評を受けつけない。おまけに、「天体」も「SF」もできるだけ現実から遠いものでありたいという願望の対象にうってつけなのである。
いわゆるSFマニアが「SFマインド」と称し、誉める時に「この作品にはSFマインドがある」というように使用するファン限定用語がある。SFファンなら誰だって好きな作家の代表にブラッドベリがいるが、彼の作品を批評的に読むなら、感傷的すぎる、通俗的な文学というイメージによりかかっている、ということもできるのだが、じゃああんたどうなのといわれると、『火星年代記』に『何かが道をやって来る』に『刺青の男』……、タイトルを聞いただけで思わず涙が出てきそうでなにもいえなくなってしまう。なぜなら……なぜなら、ブラッドベリこそSFマインドの(正確にいうなら、SFマインドの重要な半分を持っている)作家だからなのだ。
グレッグ・ベアの『火星転移』(小野田和子訳、ハヤカワ文庫)を読みながら、ぼくの「SFファン」としての「SFマインド」はベアのブラッドベリ的なSFマインドに共鳴して喜び、のたうつ。その時の「SFマインド」とは要するに「火星に行きたい!」ということではないかとぼくは思う。火星、近未来、宇宙船、ベアになるとこれにナノ・テクノロジーや思考する人工頭脳や素粒子へのアクセスが加わるけれど、ここに出てくる火星のなんと懐かしいことか。
SFにとって火星はいつも、純潔な少年時代、失われたエデン、故郷、古き良き時代を意味する。時間と空間の両方にまたがった「ユートピア」。それが火星なのだ。そして「ユートピア」に批評はいらないのである。
さて、ブラッドベリ的なSFマインドはSFマインドの重要な半分だとぼくは書いた。ベアの『火星転移』にはSFマインドの残りの半分がある。
それは「想像できないこと」「考えられないこと」を記述しようという試みである。下巻の終わり、「大跳躍」の途中で主人公たちは宇宙規模のコンピューターを経由して「創造の根源」と対話を交わす。この瞬間があるからこそ、SFファンはSFを読む。そして、この瞬間だけ逆説的にSFファンはただの読者になる。
なぜなら、「想像できないこと」を記述することはあらゆる芸術が見るただ一つの夢だからである。
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