解説

『岡本かの子全集〈9〉』(筑摩書房)

  • 2017/08/05
岡本かの子全集〈9〉 / 岡本 かの子
岡本かの子全集〈9〉
  • 著者:岡本 かの子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(612ページ)
  • 発売日:1994-03-01
  • ISBN-10:4480028293
  • ISBN-13:978-4480028297
内容紹介:
新発見された作者14歳時の投稿歌を初め、初収録の歌48首を含め、蒐集し得た全短歌を収載。
岡本かの子の名前が心に刻まれたのは、高校生のときのことだった。母の本棚にあった瀬戸内晴美著『かの子撩乱』を読んだ。そこでは多くの短歌が引用されていたけれど、作品として歌を読むという感覚は、私にはまだなかった。とにかく、かの子の生き方、そしてそのエネルギーに、圧倒された。こんなに激しくて、こんなに純粋で、こんなに目茶苦茶な女性が、確かに生きていたということ。そのことに、深く心を動かされた。

のちに自分自身が短歌を作るようになって、はじめて歌人としてのかの子を意識するようになった。

桜ばないのち一ぱい咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

ああ、あの人生を生きた人の歌だ、と思う。一首のなかで、きりりと桜と対時する作者。なだれおちてくるような生命力を、はっしと受けとめて。桜を見るということは、これほどの覚悟がいることなのだ、と思わせられる。そしてまた、かの子自身が、満開の桜のようにも見えてくる。

歌人にとって桜の花というのは、画家にとっての富士山のようなもの。多くの先人に多くの名作を作らせた素材というのは、ちょっとやそっとの気構えでは立ち向かえない。下手をすると、歌人のほうが、桜にからめとられてしまうという恐さがある。

ところがかの子は、歌集『浴身』に百三十余首の桜の歌を載せている。なんという気前のよさ。なんという大胆さ。背景には「中央公論」の編集者滝田樗陰が「さくら百首」を企画したということがあるが、その依頼に応えるパワーというのは、並み大抵のものではない。依頼された百首を、かの子は一週間で作ったという。奇しくも、私も同じ「中央公論」から桜の短歌を依頼されたことがあるが、一カ月かかってやっと二首。それでも、へとへとになってしまったのを覚えている。

ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ

結句の「肉体の感じ」は、今読んでもはっとするような言葉の置き方だ。

いつぽんの桜すずしく野に樹(た)てりほかにいつぽんの樹もあらぬ野に

仁丹の広告燈が青くまた赤く照せり夜の桜ばな

ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり

好きな歌を何首か抜きだしてみた。いずれも、新鮮な桜たちだ。

かの子には『浴身』の前に『かろきねたみ』と『愛のなやみ』という二冊の歌集がある。『かろきねたみ』の魅力は、やはりなんといっても、情熱的な相聞歌だろう。積極的で堂々とした歌いぶりは、「待つ」ことを基調とした古い日本の女性像とは、まったく異なっている。情熱的で積極的な相聞歌といえば、与謝野晶子を思い浮かべる人も多いかもしれない。確かにそうなのだが、晶子の場合は、とことん「女」という感じがする。自分のなかの「女」を最大限に引き出すという意味においての積極性であり、堂々とした歌いぶりなのである。が、かの子の場合は、精神的には「男」を思わせる積極性がある。その点が、独特だ。これまでにない骨太の相聞歌。これは、かの子にしか歌いえない世界ではないかと思う。

生(は)へ際(ぎは)のすこし薄きもこのひとの優しさ見えてうれしかりけり

垢(あか)すこし付きて萎(な)へたる絹物の袷の襟こそなまめかしけれ

唇を打ちふるはして黙(もだ)したるかはゆき人をかき抱かまし

相手の「生へ際」や「垢すこし付きて萎へたる絹物の袷の襟」を観察する目、そして「かき抱かまし」という能動態。愛しい者を狩る、という感覚だ。

かの子の短歌を読んでいておもしろいのは、そこに現れる感情や思想が、非凡にして人をひきつけるものである、という点だろう。多くの作品において、ナマな感情がナマな状態で三十一文字の器に盛られている。

そこが強みでもあり、弱みでもある。盛られる感情が平凡なものであるとき、歌はたちまち、色槌せてしまうのだ。正直言って『愛のなやみ』には、そういった作品がかなり見られる。「君がいなくて寂しい」「仔犬が死んで悲しい」といった感情は、かの子方式では、なかなか歌になりにくい。連作仕立ての作品も多いが、筋の流れを散文的に説明するだけで、一首一首の独立性が乏しくなってしまっている。

なかで、私には「厨(くりや)にてうたへる」が、おもしろかった。台所で女が歌っているのに、ちっとも糠(ぬか)みそくさくない。

いそがしくふところかゞみふところにおさめてまたも葱(ねぎ)きざみけり

じやがいもの真白き肌に我指の傷の血しほの少しにじむも

白菜を洗ふ我手の一すじの指輪しらしら光る朝かな

一平との結婚生活では苦労も多かったようで、慣れない台所での辛さの滲む歌もある。が、右のような、色気があって生活感のない台所の歌に、かの子らしさが出ているのではないだろうか。

『浴身』に続く第四歌集は、その名も『わが最終歌集』といい、以降短歌は作り続けられたものの、まとまった形での歌集は、生前編まれなかった。

かの子は、短歌という形式と相性がよかったのだろうか、と考えることがある。これは想像だけれど、見たまま感じたままを、苦もなく三十一文字にできてしまう、かの子はそういうタイプの人だったのではないかと思う。そういう意味では、相性はいい。ただ、よすぎて、形式と格闘する時間を持てなかったのではないか、と思われるふしもある。そういう意味では、妙な言い方になるけれど、よすぎて悪い、とも言える。

歌集に並べられている歌を見ると、ほとんど同じ発想、同じ言葉を用いたものが、無造作に続いているところが少なくない。その大雑把なところが、かの子らしいといえばかの子らしいのだろうが、もう少し前後を整理するとか、この二、三首をまとめて密度の濃い一首に仕立てあげるとか、できないだろうか、と思ってしまう。

たぶんそんなことを、ねちねちやっている暇もなく、次の歌が生まれてきたのだろう。私はとどまりたくないの、さっさと行きたいの……かの子の歌群は、そう言っているようにも見える。

ほとんどが、きっちり三十一文字なのに、意外とリズミカルでないのも、特徴だ。この意味でも、短歌の特性を生かしきっていない、と言える。つまり散文的に内容を伝えるものが多いのである。

そんななかにあって、秀歌として残るのは、多くの場合リフレインを含むものであることに、私は注目したい。リフレインは、そうそう使える手法ではないけれど、確実にリズムのよさをもたらしてくれる。そして内容的には、より単純化し、説明臭を除いてくれる。かの子の歌のマイナス面を、確実にプラスに変えてくれる手法なのだ。

本人はたぶん無意識だろうし、意識しないで使われるリフレインだからこそ効果がある。リフレインとは、短歌形式に対する一種の甘えなので、それが意識されると、とても醜いものになってしまうのだ。かの子の場合は、まことに無防備にリフレインに身をゆだねている、といった感じ。だからその言葉の景色が美しいし、また力強い。

桜ばないのち一ぱい咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ

いつぽんの桜すずしく野に樹(た)てりほかにいつぽんの樹もあらぬ野に

これまで挙げてきた三首である。同じ言葉の繰り返しが、リズム感と単純化を導いている。
次の二首も、私の大好きな歌だ。やはり、これらの歌も、宿ってしまったリフレイン、こう表現するしかなかったリフレイン、という感じがして、美しい。

炎天に鶴尖(つるはし)ひとつひかりたりまたひとひかりまたひとひかり

風もなきにざつくりと牡丹くづれたりざつくりくづるる時の来りて
岡本かの子全集〈9〉 / 岡本 かの子
岡本かの子全集〈9〉
  • 著者:岡本 かの子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(612ページ)
  • 発売日:1994-03-01
  • ISBN-10:4480028293
  • ISBN-13:978-4480028297
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新発見された作者14歳時の投稿歌を初め、初収録の歌48首を含め、蒐集し得た全短歌を収載。

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