書評

『陰翳礼讃』(KADOKAWA/角川学芸出版)

  • 2017/08/05
陰翳礼讃 / 谷崎 潤一郎
陰翳礼讃
  • 著者:谷崎 潤一郎
  • 出版社:KADOKAWA/角川学芸出版
  • 装丁:文庫(192ページ)
  • 発売日:2014-09-25
  • ISBN-10:4044094713
  • ISBN-13:978-4044094713
内容紹介:
日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作に加え、日本の風情をユー… もっと読む
日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作に加え、日本の風情をユーモアたっぷりに書く「廁のいろいろ」、言葉の問題をテーマにとった「現代口語文の欠点について」など8編を厳選収録。日々の暮らしの中にある住居、衣服、言葉などをあらためて見つめ、日本文化を問いなおす随筆集。「先人に学ぶ」シリーズ。

「陰翳」は、いたるところに

『陰翳礼讃』と「インターナショナル・スタイル」

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の解釈は多様である。これを、メタフォリックな文学論として読むならば、「家屋」という「虚無の空間を任意に遮蔽して自ら生ずる陰翳の世界」は、そのまま、広大な言語空間に構築される「小説」の意となり、そこでの厨(かわや)談義や食談義は、排泄、食といった行為を、小説中でいかに扱うべきかを示唆し、座敷の空間構成についての説明は、トドロフの所謂「話 histoire」に対する「述話 discours」のあり方についての彼なりの見解の表明と見なすことが出来る。彼が闇への愛着を語る時、それに擁護される作家の射程は、泉鏡花から最近のゴシック・ホラーの作家たち、更にはボルヘス的な盲目文学の系譜までと、非常に広範である。むろん、女性史としての一面もある(「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない」という彼の証言は衝撃的である。彼の終生の文学的モティーフであった女の「足」とは、そうして、目に見える現実の領域と、非在の闇との間で、淡く揺曳する幻のようなものではなかったか)。

また、電気器具等のデザインが、伝統的な日本家屋に馴染まないという議論は、「日本語」と「外来語」との不調和として理解される。谷崎のような洗練された文章家は、「日本語」の「陰翳」の中に、現実の生活に次々と持ち込まれてくる「シェード」や「ストーヴ」といった新語のための場所を空け、それらを落ち着かせることに非常に腐心したはずである。彼が、「われわれの喜ぶ『雅致』と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子がある」と言う時、その「不潔」とは、無常の時の流れの中で日々失われてゆく人々の生活の痕跡であり、モノと人との間の親しげな「関係」の蓄積である。それこそが、即ち「陰翳」となる。まだ人の口の垢に十分に汚れていない新語は、語の相互の微妙な調和の中で、不用意に浮き立って、全体の統一感を損なってしまう。それは新鮮なだけに不安定で、生活の実際を潜り抜けて角を落としていない分、手触りが悪く、前後の語との間に軋みを生じさせるものである。

『陰翳礼讃』が面白いのは、それが、彼の小説作品と同様に、理念的な出発点からではなく、飽くまで自身の実感の中から語り出されていることである。彼は、自分の当たり前に慣れ親しんでいた生活環境の中に、様々な舶来の製品、思想、言葉が闖入してくることに、違和感を感じたであろう。そして、当時の人間らしく、「日本」と「西洋」という二つの価値観の対立について考えてみたに違いない。問題は、その「日本」という概念の曖昧さである。

近代「日本語」は、確かに古典の言葉に根ざし、「日本」という国家の同一性を保証するものであったが、同時に、世界の中の一国家として、他国との交渉可能性を有する言語でなければならなかった。それこそが、当時、「日本語」に求められていた二つの緊急な要件である。そうした言葉を通じて、谷崎もまた、過去の文化伝統から切断されることなく、同時にまったく新しい文化と交わり、それを摂取することが出来たが、彼が、遡及的に、歴史の中に純粋な「日本語」を発見しようとした時、殆どエキゾチックなものとして王朝文学の言葉と逢着したというのは一つのアイロニーである。

谷崎がしきりに、「西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる」と嘆いてみせるのは印象的である。ちなみに、『陰翳礼讃』が世に出たのは、1933年であり、翌年には『文章読本』が発表され、2年後には『源氏物語』の現代語訳に着手している。俗に「日本回帰」と言われる彼の王朝文学への傾斜が、実際には非常に意識的な探求であったことは、改めて強調されるべきである。

ところで、『陰翳礼讃』には、一ヵ所だけ、旧帝国ホテルについての言及がある。あそこは、間接照明なので夏でも暑苦しくなくていいという程度の、極あっさりとした記述だが、実は1886年生の谷崎は、ミース・ファン・デル・ローエと同い年であり、つまりは、ル・コルビュジエよりも一歳年長で、1867年生のフランク・ロイド・ライトよりも19歳年下という世代であった。

『陰翳礼讃』の中で語られる谷崎の建築観を、試みにこの三人の巨匠と比較してみると、まず一番縁遠そうなのが、凡そ谷崎的な「陰翳」の対極にあるミースの鉄とガラスという透明感溢れる建築である。ライトはどうであろうか。確かに、同じ時期の『落水荘』に着手する前後のライトには、政治的な背景も手伝って、「インターナショナル・スタイル」に対する激しい敵意があり、都市から自然へというその視点の動きには、東京から関西へ、更には古典の世界へと目を向けつつあった谷崎と、動機に於いて重なる部分があったかもしれない。日本人で、しかも、言葉の芸術家であった谷崎が、起源への憧憬として『源氏物語』へと向かい、アメリカ人で、しかも建築家であったライトが、アリゾナの砂漠に脱近代的なユートピアを見ていたというのも頷ける。20年代のライトの装飾過剰な、エキゾチックな作品群を、初期から中期にかけての谷崎の中短篇と比較してみても面白いかもしれない。

ただ、『陰翳礼讃』で、主に座敷の採光方法を巡ってなされている議論は、むしろ、ル・コルビュジエの『サヴォア邸』のような極めて合理的な空間処理を思い起こさせるし、また「屋根と云う傘を拡げて大地に一廓の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に」採光の工夫によって空間を構成するという発想は、まるで『ロンシャンの教会』のようである。

『陰翳礼讃』の美学は、一定の空間を外界から遮蔽し、光を人間の手により自在に加工し得るマテリアル(彼が屋内の「眼に見える闇」について語る時、それはまるで、一つの建築資材のようである)へと転換することにあるが、彼が、「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある」と言う時、この発想は、時と場所とを選ばない「インターナショナル」なものである。『陰翳礼讃』は、そうして同時代のモダニズムの建築書と並べて読み返すことにより、新たな可能性を示すこととなるはずである。蓋し「陰翳」とは、時空を越えて遍在する普遍的な美の要素ではあるまいか。

【この書評が収録されている書籍】
モノローグ / 平野 啓一郎
モノローグ
  • 著者:平野 啓一郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(392ページ)
  • 発売日:2007-12-05
  • ISBN-10:4062143895
  • ISBN-13:978-4062143899
内容紹介:
三島由紀夫の新たな読みを提示した「『金閣寺』論」、「『英霊の声』論」を中心に、文学、音楽、美術、建築、そして、自らの作品について論じたファーストエッセイ集。『日蝕』の衝撃的デビューから現在まで、常に時代の最前線に立ちつづけた著者の軌跡。

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陰翳礼讃 / 谷崎 潤一郎
陰翳礼讃
  • 著者:谷崎 潤一郎
  • 出版社:KADOKAWA/角川学芸出版
  • 装丁:文庫(192ページ)
  • 発売日:2014-09-25
  • ISBN-10:4044094713
  • ISBN-13:978-4044094713
内容紹介:
日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作に加え、日本の風情をユー… もっと読む
日本に西洋文明の波が押し寄せる中、谷崎は陰翳によって生かされる美しさこそ「日本の美」であると説いた。建築を学ぶ者のバイブルとして世界中で読み継がれる表題作に加え、日本の風情をユーモアたっぷりに書く「廁のいろいろ」、言葉の問題をテーマにとった「現代口語文の欠点について」など8編を厳選収録。日々の暮らしの中にある住居、衣服、言葉などをあらためて見つめ、日本文化を問いなおす随筆集。「先人に学ぶ」シリーズ。

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初出メディア

X-Knowledge(エクスナレッジ)

X-Knowledge(エクスナレッジ) 2005年8月

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