書評

『秘花』(新潮社)

  • 2017/08/12
秘花 / 瀬戸内 寂聴
秘花
  • 著者:瀬戸内 寂聴
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2009-12-24
  • ISBN-10:4101144419
  • ISBN-13:978-4101144412
内容紹介:
そこには花と幽玄が絡みあい解けあった濃密な夜の舞があった―。『風姿花伝』『花鏡』などの芸論や数々の能作品を著した能の大成者・世阿弥。彼が身に覚えのない咎により佐渡へ流されたのは、齢七十二の時だった。それから八十過ぎまでの歳月の中、どのように逆境を受け止め、迫り来る老いと向かい合い、そして謎の死を迎えたのか…。世阿弥、波瀾の生涯を描いた瀬戸内文学の金字塔。

花は秘せられて、しかも常に咲き、……

『風姿花伝』は、能芸論書としては世阿弥のいわば処女作に当たるもので、成立は、今から大体、六百年ほど前、彼の四十歳前後のこととされている。十二歳にしてその美貌と天分により足利義満の目に留まり、以来その絶対的な庇護の下、栄華を誇ってきた彼自身の、そして観世一座の「男時」がまさに熟しきり、黄昏の影を帯びつつあった頃であり、能役者としてもまた、その芸が「盛りの極め」に達し、頂から少しずつ下り始めていた時期である。父観阿弥より受けた教えを、自らの実践によって確かめ、漸く語るに十分な機を得たその言葉には、瑞々しくも老成した、また老成しつつも瑞々しい、張りが感じられる。それが、時には充実のように感じられ、時には無理のようにも感じられるというのが、この書の独特の魅力だろう。

今日、この『風姿花伝』を読む一般の読者は、能にまったく興味がないとしても、内容の一々尤もなことに目を見張るに違いない。とても、そんな昔に書かれたものとは思えないほど、舞台芸術論としては洒脱に洗練されていて、決して観念的ではなく、演じ、観られるという実践から外れた場所では、ほとんど一語も発せられてはいない。五十を過ぎると、「大方、せぬならでは手立あるまじ」などというのは、どこか、ユーモアさえ感じさせるような直截さである。

芸術史には、「始まり」と「発展」との一対が、あらゆる場所で認められる。一人の芸術家の一生に、それが同時に認められることもあれば、誰かが始め、後の誰かが発展させることもある。「始まり」そのものが、そもそも、何らかの「発展」の印に違いないが、その意味では、発展させる者は、まずそこに始点を定め、それがアブクのように一瞬兆して消えてゆくものではなく、そこから後に続くべき何かであるということを明確にする必要がある。曖昧に始めることはできるが、曖昧には何事も発展しない。作品があり、そのアクセス・ポイントが批評の分節化によって形成される、というのは、テクスト化されようとされまいと、芸術の発展に際しては、常に不可避の事態である。

観阿弥、世阿弥親子は、その役割分担を二代で成し遂げようとした。能を書き、理論書を書く世阿弥の生涯を通じての言語化の欲求は、いわば確実さへの意志である。

『秘花』の前半には、しかしながら、こうした作業が、世阿弥にとっていかに困難であったかが丹念に描かれている。

本書が完成するまでに作者が渉猟したであろう資料は恐らく膨大であり、取材は綿密で、作品にはそれが遺憾なく発揮されているが、私はそこに、ネット検索時代の浮薄な博覧強記にはない腰の強さを感じ、またアカデミックな研究にはないセクシーな奔放さを感じた。

どんな小説も、フィクションである限りは、一定のご都合主義を免れ得ないものである。しかし、「歴史」を取り扱う時、「事実」として書き残されている内容は、否応なくその行く手を定めてしまう。小説家は、そこで抑圧され、自身の想像の産物を、いかにすればその隘路に潜らせることができるかと苦心するわけだが、その過程を通じてこそ、プロットは鍛えられ、文章はだぶつきを落として引き締められる。作者が自ら語る通り、世阿弥が佐渡に渡るまでの資料的な縛りは、随分と窮屈に感じられたであろうが、結果としてそれは、世阿弥が彼の人生に於いて経験しなければならなかったあらゆる不如意の表現に、独特の緊張感を与えている。

作者がここに、官能的な彩りで描き出しているのは、虚仮としての世間と肉体という、世阿弥が対峙しなければならなかった二つの次元の無常である。

観世一座の率い手としての世阿弥は、パトロニズムという、彼らが依拠せざるを得なかった制度が、どう努力してみても安定的でないことに、生涯、苦悩させられる。そこには、常にパトロンの趣味嗜好、パトロンの代替わり、パトロンの気まぐれ、そしてパトロンの肉体的な欲望という、彼自身の芸術家としての努力とは決して対称的でない要因が作動している。同時に肉体は、一旦莟が萌した後には、必ず花を咲かせて散ることを止められないように、理念的であるためには、あまりに変化の大きなメディアである。

彼は、権勢という不確定要因に対しては、最後まで無力に翻弄され続け、肉体という、予測可能ではあるが不可避の、ただ一周だけ綺麗に円を描いて停まる時計に対しては、各々の時の「時分の花」を尊重しつつ、「まことの花」を夢見続けるしかなかった。遺伝は、更に代を継いで伝達されるべき芸に、その都度、一定の不確実な、ままならなさを差し挟む。

世阿弥が実践的な芸術家として偉大だったのは、そうした困難に対し、決して抽象的な解決へと逃避しなかったことだが、そうした彼の人間性に対する作者の洞察は、佐渡流刑後の描き方にも揺るぎなく反映されている。

構造的には、この佐渡流刑を挟んだ前後の愛欲の様態には、一方が他方を追いかけ、他方がまた一方を追いかけていずれも追いつかないようなイメージの呼応がある。かつて義満の寵愛を一身に浴び、最下層の周縁的身分から、権力の中枢へと呼び込まれ、肉体的な結合を経験した世阿弥は、佐渡に於いては、海の向こうから訪れた一種の「まれびと」として迎え入れられ、しかも、その地の「流れ者」で、息子の死により狂気に見舞われてしまう女と結ばれ合う。しかも、義満に、ついに天皇にはなれないという埋めがたい欠如があったのと類比的に、世阿弥は、かつて佐渡に流された順徳上皇に自らの境遇を重ねつつ、決して同化できず、美しくも幼い少年一人ものにすることができないという苦悩を経験する。愛欲の発動は、常にこの孤独な欠如の周りをグルグルと回っている。両者の響き合いは、一見、編年的に造作されたこの小説の構えを、一段と深くしているように見える。

世阿弥が晩年、聴力を失い、視力を失ってゆく様の静謐な描写には、彼を翻弄し続けたあらゆる移ろいゆくものからの涅槃的なゆるやかな遠ざかりが感じられ、印象深いが、その最期に口にする言葉には、読者を一気に『秘花』というタイトルへと直結させるような思いがけない手繰り寄せが仕掛けられている。

読者はそこで、はたと息を呑んだまま、末尾まで辿り着いてしまう。そして、その余韻の中で、小説に於いて、書かれることと、書かれないこととの不思議な天秤の揺れを、何時までも感じ続けることになるであろう。

【この書評が収録されている書籍】
「生命力」の行方――変わりゆく世界と分人主義 / 平野 啓一郎
「生命力」の行方――変わりゆく世界と分人主義
  • 著者:平野 啓一郎
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(402ページ)
  • 発売日:2014-09-23
  • ISBN-10:406219063X
  • ISBN-13:978-4062190633
内容紹介:
社会を動かす「生命力」は、どこへ向かうのか?今、自分らしく幸福に生きるとはどういうことか?未来を考えるためのエッセイ&対談集

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秘花 / 瀬戸内 寂聴
秘花
  • 著者:瀬戸内 寂聴
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2009-12-24
  • ISBN-10:4101144419
  • ISBN-13:978-4101144412
内容紹介:
そこには花と幽玄が絡みあい解けあった濃密な夜の舞があった―。『風姿花伝』『花鏡』などの芸論や数々の能作品を著した能の大成者・世阿弥。彼が身に覚えのない咎により佐渡へ流されたのは、齢七十二の時だった。それから八十過ぎまでの歳月の中、どのように逆境を受け止め、迫り来る老いと向かい合い、そして謎の死を迎えたのか…。世阿弥、波瀾の生涯を描いた瀬戸内文学の金字塔。

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初出メディア

群像

群像 2007年8月

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