書評
『ほとんど記憶のない女』(白水社)
トヨザキ的評価軸:
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
職業柄、そんな質問を受けることがよくありますの。答えは「翻訳家で選べば間違いなし」。
英米だけ一部具体名を挙げてみると――。柴田元幸、青木純子、若島正、大森望、柳下毅一郎、鴻巣友季子、越川芳明、黒原敏行、志村正雄、風間賢二。そして、短篇集『ほとんど記憶のない女』の訳出によって、日本では未知の作家リディア・デイヴィスを本邦初紹介してくれる岸本佐知子が、わたしにとって、”出れば即買い”信頼印の翻訳家なんであります。
さて岸本佐知子といえば、かつて在籍していた会社で、突拍子もないことをしでかす様を示して“キシモトる”という物言いが残っていることから察しがつくとおり、相当な面白キャラ。そんな生きながら伝説と化すことのできる人間が、ありきたりの小説なんかわざわざ訳すはずがございません。というわけで、リディア・デイヴィスもかなりヘンテコな作家なんですの。
鋭い知性の持ち主なのに、ほとんど記憶を持たない女についての表題作からして奇妙。その女は本を読むのが好きで、読みながらメモを取るのだけれど、記憶が定着しないからかつて書いたメモを読むと、そのどれもが新鮮に思えてしまう。すると作者のデイヴィスは、メモを取る→メモを読み返す→メモについて考える→そのメモによって思いついたことをメモするという終わらないループを、三ページにも満たない短い文章の中で考え尽くさずにはいられないんです。その徹底ぶりは呆れるを通り越して感動的ですらありますの。
たかだか百九十ページの中に収められている五十一篇もの作品の多くはとても短い。しかし、内容は濃いっ。わかることもわからないことも全部ひっくるめて考えたい、物事のありとあらゆる可能性について考え尽くしたい、これはそんな異常ともいえる堅牢強固な意志の力によって書かれた作品群なのです。ところが、膨大にふくれあがる思考を、作者は最小限の言葉で表そうとしている。そこがまた凄い。でも一方で、この作家は語り尽くしたいという熱望が言葉によっては決して叶えられない、その知的な諦観から生まれる虚無も持ち合わせているようにも思えるんです。そして、そうした作家として直面しなければならない諦観が、時に女性としての生の光景にも重なっていく。それが見事に表現されているのが「グレン・グールド」という名篇なんではありますまいか。
うん、やっぱり岸本佐知子の訳す本にハズレなし。信頼感をさらに強める一冊なんですの。
【この書評が収録されている書籍】
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
短いけど、濃いっ! 翻訳家への信頼をさらに強める短篇集
「面白い海外小説と出合うにはどうしたらいいですか」職業柄、そんな質問を受けることがよくありますの。答えは「翻訳家で選べば間違いなし」。
英米だけ一部具体名を挙げてみると――。柴田元幸、青木純子、若島正、大森望、柳下毅一郎、鴻巣友季子、越川芳明、黒原敏行、志村正雄、風間賢二。そして、短篇集『ほとんど記憶のない女』の訳出によって、日本では未知の作家リディア・デイヴィスを本邦初紹介してくれる岸本佐知子が、わたしにとって、”出れば即買い”信頼印の翻訳家なんであります。
さて岸本佐知子といえば、かつて在籍していた会社で、突拍子もないことをしでかす様を示して“キシモトる”という物言いが残っていることから察しがつくとおり、相当な面白キャラ。そんな生きながら伝説と化すことのできる人間が、ありきたりの小説なんかわざわざ訳すはずがございません。というわけで、リディア・デイヴィスもかなりヘンテコな作家なんですの。
鋭い知性の持ち主なのに、ほとんど記憶を持たない女についての表題作からして奇妙。その女は本を読むのが好きで、読みながらメモを取るのだけれど、記憶が定着しないからかつて書いたメモを読むと、そのどれもが新鮮に思えてしまう。すると作者のデイヴィスは、メモを取る→メモを読み返す→メモについて考える→そのメモによって思いついたことをメモするという終わらないループを、三ページにも満たない短い文章の中で考え尽くさずにはいられないんです。その徹底ぶりは呆れるを通り越して感動的ですらありますの。
たかだか百九十ページの中に収められている五十一篇もの作品の多くはとても短い。しかし、内容は濃いっ。わかることもわからないことも全部ひっくるめて考えたい、物事のありとあらゆる可能性について考え尽くしたい、これはそんな異常ともいえる堅牢強固な意志の力によって書かれた作品群なのです。ところが、膨大にふくれあがる思考を、作者は最小限の言葉で表そうとしている。そこがまた凄い。でも一方で、この作家は語り尽くしたいという熱望が言葉によっては決して叶えられない、その知的な諦観から生まれる虚無も持ち合わせているようにも思えるんです。そして、そうした作家として直面しなければならない諦観が、時に女性としての生の光景にも重なっていく。それが見事に表現されているのが「グレン・グールド」という名篇なんではありますまいか。
うん、やっぱり岸本佐知子の訳す本にハズレなし。信頼感をさらに強める一冊なんですの。
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