皆が思い当たることを鋭い観察眼でとらえる
創作は限りなく自由な言葉の表現である、ということを徹底して主張し続けている作家がいる。リディア・デイヴィスだ。彼女の作品は、文章が言葉を繋(つな)げて作られているというひとつの制限を、無限の自由に転換しようとする試みともいえる。『ほとんど記憶のない女』と同じように、本書にも1、2行しかない文章から、数十ページにわたる物語まで、さまざまなタイプの話が収められている。デイヴィスは「自分の短い小説が、ある種の爆発のように、読み手の頭の中で大きく膨らむものであってほしいと願っている」とインタビューで語っている。確かに、どの作品も彼女の鋭い観察眼によって文字にとらえたイメージや動きや関係性に満ちていて、それが読み手の頭の中に入り込み勝手に膨らんでいく。しかもデイヴィスは、不穏な空気までも読み手の内部に定着させる。考えてみればこれはとても恐ろしい体験である。
「〈古女房〉と〈仏頂面〉」では、一見深刻な夫婦の関係がどんどんコメディーへと変化していく様子が痛快なのだが、自分の中にもこの関係性に見られる要素があることに気づいて笑みが凍り付く。コーリイ・フォードのユーモアを彷彿(ほうふつ)させるさっぱりした小品もいいが、トマトの苗木のことが頭から離れない「甲状腺日記」や、キュリー夫人の短い伝記には妙に惹(ひ)きつけられる。後者はキュリー夫人の人生をシンプルに区切り、硬質な口調で語っていて、歪(ゆが)んだ客観性がもたらす怖さがじわりじわりと迫ってくる。
タイトルにあるように、18世紀の大家サミュエル・ジョンソンは怒りっぽかったようだが、本書全体にも怒りが満ちていて、不機嫌、不信、不満といった原始的な感情を知的な方法で表現するという、高度な実験を行っているようにも見える。