書評
『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店)
家父長制的資本制
「マルクス主義フェミニズムーその可能性と限界」という題で、『思想の科学』誌上に足かけ三年、計十四回にわたり連載された論文が、単行本になって帰ってきた。当時から評価が高かったうえ、今回は寄せられた批判に対する反批判も書き加えられた。《構成を大幅に変え、リライトや補足を大幅につけ加えた本書は、連載時より論点が整理されてわかりやすいものになっているはずである》(あとがき)と、著者も自信をのぞかせている。どの頁を開いても、世界中のフェミニストからの引用が目につくが、本書はもちろん、学説紹介に終始するちんまりした本ではない。「理論篇」、「分析篇」の二つのパートからなり、現代社会で女性が置かれた状況を分析して、骨格のくっきりした図柄を描き出すことを目的にしている。本書を通読するなら、著者上野氏が、結局ひとつのこと(だけ)を訴えていることがわかるだろう。そのメッセージは、丹念な論理の運びと豊富なデータの裏付けによって、私や多くの読者に納得できるものになっている。
結論から先に言うと、著者上野氏の立脚するマルクス主義フェミニズムは、《女性の抑圧の構造を解明するには、「マルクス主義」と「フェミニズム」の二つの理論装置が、二つながら必要であることを認める立場》(一一頁)である。マルクス主義は市場を、資本制として分析する理論。フェミニズムは家庭を、家父長制として分析する理論。どちらも他に還元できないという意味で、二元論だ。《マルクス主義フェミニズムは、階級支配一元説も、性支配一元説もとらない。とりあえず資本制と家父長制という二つの社会領域の並存を認めて、その間に「弁証法的関係」を考える》(二六頁)。この弁証法的関係の上に成り立つ、近代社会に固有の歴史的な形態が、「家父長制的資本制」である。
抑圧の物質的根拠
用語の意味を取り違えやすいので注意が必要だが、まず「マルクス主義フェミニズム」とはなにか。これは、普通のマルクス主義でない。上野氏によれば《女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論》には《一・社会主義婦人解放論、二・ラディカル・フェミニズム、三・マルクス主義フェミニズム》の《三つがあり、また三つしかなかった》(三頁)。そしてマルクス主義フェミニズムはまさしく、この一と二の《統合もしくは止揚として登場した》。《フェミニストの視点からマルクスの原典という聖域を侵犯し、その改訂を辞さない一群のチャレンジングな人びとだけを、私はマルクス主義フェミニストと呼ぶ》(一一頁)つぎに「家父長制」だが、これは歴史上成立した古代ローマの大家族制度のことでもないし、人類学者が部族社会に見出す長老支配のことでもない。資本制の発展と相たずさえて成立した近代家族(ブルジョワ単婚家族)こそ、その典型である。要するに《家父長制とは、家族のうちで、年長の男性が権威を握っている制度を言う》。われわれが現に営んでいる家族は、《性と年齢(世代)を編成原理とした制度であり、この中では性と年齢に応じて、役割と権威が不均等に分配されている》のだ(六五頁)。
さて著者は、近代市民社会の成立が、二重のプロセスだったととらえる。すなわち一方で市民社会は、貨幣による交換のシステム、すなわち市場を展開させてゆき、資本制を完成した。だが市場は、社会の全域にわたるシステム(閉鎖系)でない。その背後に、市場の論理に服さない反対物、すなわち家父長制的家族を生み出さざるをえなかった。この結果女性は、家族内でも市場でも、たかだか二流の存在(市民)と位置づけられてしまう。こうした抑圧の構造にはそれ相応の理由(物質的根拠)があるというのが、マルクス主義フェミニズムの主張である。
このように考えれば、これまでの女性解放論が批判すべきものとなるのは当然だ。まず《近代主義的なブルジョワ女性解放思想》は《「抑圧の構造」を分析する理論装置を……持たない》ため、《啓蒙もしくは運動論に帰着する》(一二~一四頁)。次にマルクス主義(社会主義女性解放論)は、「再生産」、「イデオロギー」など継承すべき重要な概念をそなえているが、《女性の抑圧は階級支配の従属変数》(四頁)だとしか考えない。またラディカル・フェミニズムは「家父長制」の概念をたて、女性の抑圧を独立変数として取り出した点が画期的だったが、それを資本制との関連でとらえるにいたらなかったのである。
それではマルクス主義フェミニズムは、その理論にもとづいてどのような戦略をたてるのか。
さらなる多元論へ
マルクス主義フェミニズムは、家族が再生産機能を果たす事実に注目し、そこに家事労働(市場化されない、女性の不払い労働)を発見した。《したがってフェミニストの要求は、第一に再生産費用の両性間の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることにある》(一〇六頁)。これは《「家族破壊的」な戦略である。……家族の性/世代間支配の物質的基盤を破壊し、家族の凝集力を、ただたんに心理的基盤の上にのみ置くための試みである》(一〇七頁)。このように、マルクス主義フェミニズムの立場にもとづき本書の与える分析と診断は、首尾一貫していて明快である。ただし、それがどのような《フェミニスト・オルターナティヴ》(現実的方策)に結びつくのかとなると、必ずしも明確でない。家族を「破壊」したあと、性や出産をめぐってどのような社会関係を形成しようと提案したいのか、見えにくいのである。
この点を意識してか、著者は、フェミニズムの限界を指摘してもいる。《レイシズム(人種差別)やエイジズム(年齢差別)にまで射程が届くわけではない》。だから二元論のその先を行き、《さらなる多元論をこそめざすべきなのである》(二七六頁)。この主張に賛成したい。
フェミニズムの登場は、性差別が世界を考えるのに不可欠な要因であることを気付かせたという点で衝撃的だった。ラディカル・フェミニズムは、それが唯一最大の要因であるとさえ主張した。二元論をとるマルクス主義フェミニズムは、より現実的で綿密な理論になったが、衝撃力はそのぶん低下した印象がある。これが多元論ともなると、性差別の相対的な説明力はますます小さくなるだろう。それでいいのだ、と私は思う。性差別問題の重要性を強調するあまり、それに大きすぎるウェイトを与える議論よりも、それを社会の多様な変数のなかに、適切に位置づける試みのほうが、ずっと成熟した、ずっと将来展望のあるフェミニズムの理論的努力であるだろうからだ。
【文庫版】
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする