書評
『友だちの出来事』(新潮社)
青野聰の新作を読んでいろんなことを真剣に考えた
だいたい小説には二種類あって、読んでる時なにも考えなくていいものと、どんどんいろんなことを考えたくなってくるものがある(いやいや、小説だけじゃないってことはわかってるけど)。その場合、①あまりにも面白いので、どんどん読み進んでしまい、その結果としてなにも考えるひまがないもの、
②あまり面白くないので、心ここにあらずになり、本を読みながら他のことばかり考えてしまうもの、
――のふたつに分けられるだけならいいが、実際には、
③あまりにも面白いので、読みながらずっと、いったいこの面白さはどこから来るのかと考えてしまうもの、
④あまり面白くないので、心ここにあらずになり、途中で立ってテレビをつけたりCDをかけたり電話をかけたりマンガを読んだりして、結局その本のことはほとんど考えないもの、
――なんてのもあるわけである。
一介の小説ファンとしては①の「面白いので、考えるひまがない」タイプも捨てがたいが、やはり③の「面白いので、いろいろ考えた」タイプがいちばん嬉しい。とはいっても、このタイプだって単純ではありません。いちばん多いのは「(知的に)面白いので」そこんところを「(知的に)考えた」だろう。クンデラや最近ようやく翻訳されたピンチョンの『重力の虹』なんかはその典型で、こういった小説の読者は半ば「セミプロ読者」でなければならず、ふだん本を読まないのにふらりと立ち寄って読んでみたら面白かった、というわけにはなかなかいかないのである。しかし、小説の中には、一見して「セミプロ読者」向きではなく、「素人に近い読者の入室も可」という恰好をしながら、実際には限りなく「セミプロ読者」向きに書かれているといった作品もあって、その二面性こそ、現代小説を書く作家が依って立つ倫理的基盤ではないかとぼくは思っているのだった。おお、ずいぶん長い前説になっちまったが、青野聰の新作『友だちの出来事』(新潮社)こそ、そのもっとも難しい場所で書かれた作品だったのだ。
そういうわけで『友だちの出来事』では、きわめて平明な書き方がされている。つまり読みやすい。だから、さっさっさっと読みすごしてしまう可能性も高い。
ある日突然、若い女が失踪し、雪の中で凍死する。その若い女に関係のあったさまざまな人間が語る、彼女のイメージはそれぞれに微妙に異なっている――というと、芥川龍之介の名高い『藪の中』っぽいが、あんな具合にあざとく「真実はどれか?」と追求しているわけではない。謎を探そうとしながら、いわゆる「ミステリーの形をとった現代小説」を書こうとしているわけでもない。劇的になりそうな事件がいろいろ顔を覗かせてはいるが、どれかを大きくとりあげるわけでもなく、だからといって中心となる出来事があるわけでもない。登場人物たちは巧妙に書きわけられているが、作品中で強く自己主張しているわけではない(「話者」も出しゃばらない)。胸をつくような哀しみを感じさせる瞬間はあっても、それはその時だけで終わり、作品のテーマになろうとはしない。そう、これは「ないない」尽くしの作品なのだ。
あれも「ない」これも「ない」。余計な意味をつけ加える必要はなにもない。だが、なにもかも輪郭だけは明確で、哀しい感情だけは溢れている。それがたいていの人生によく似ていることだけは「プロの読者」も「アマチュアの読者」も認めざるをえないだろう。
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