作家論/作家紹介
【ノワール作家ガイド】ユージン・イジー『友はもういない』『無法の二人』『地上九〇階の強奪』
ユージン・イジーは一九五三年、シカゴ南部の製鉄の町ヘゲウェシュで産まれた。早くから作家を志していたが実際の生活は荒れ、製鉄所で不定期に働いては酒に溺れるというようなありさまだったという。家族にも見放され、理髪店のトイレに寝泊まりする日すらあった。その彼が成功を掴んだきっかけはエルモア・レナードの洗礼を受けたためである。『野獣の街』(八〇)を読み、プ口ットの重要性に開眼したのだ。八七年に処女長篇『友はもういない』を発表、その後も『無法の二人』The Eighth Victim(八八)、『地上九〇階の強奪』King of Hustlers(八九)と、一年に二作というハイペースで新作を発表し続け、シカゴに拠点を置いた犯罪小説家として一挙に脚光を浴びた。また、覆面作家ニック・ガイターノとして、シカゴ市警を中心にした警察小説も発表している。ペンネームの由来は、二人の子供の名前、ニックとジーノに、自らのニックネーム、ガイを組み合わせたものである。
『友はもういない』に始まるイジーのシカゴ犯罪小説の特徴は、サーガを意識していることにある。『友はもういない』のアンダーグラウンド世界設定が、後の作品にも継承されていくというように、一連の作品を通読すると大河小説となるような配慮がなされているのである。こうした趣向の作品は他の作家でも枚挙に暇がないが、代表例を上げるとすればリチャード・コンドンのプリッツィ・ファミリー四部作などだろうか。おそらくイジーは相当に先行作品を研究して『友はもういない』を書き始めている。強烈に意識されているのは、リチャード・スタークだろう。同書で披露される強盗哲学には、明らかに悪党パーカーの世界観から移植されたものが少なくない。続く『無法の二人』の主人公二人の対立図式は、エルモア・レナード『野獣の街』である。この小説で、囮捜査官ジンボをつけ狙うジジ・パーネルは母親に強い固着を示していることから"白熱強盗"と呼ばれている男だが、これは、ラオール・ウォルシュ監督『白熱』(四九)でジェイムズ・キャグニーが演じたマザコンのギャングがモデルである。また、ジンボが彼のことを『死の接吻』(四七)でリチャード・ウィドマークが演じた殺し屋になぞらえる場面もある。このようにフィルム・ノワールへの言及も抜け目なくなされている。
こうした先人への敬慕の念を取り払ってみたところに、イジーの独自性がある。それは身体性への過剰な愛着であり、期待だ。『地上九〇階の強奪』は、腕利きの金庫破りであるボロと、若き相棒のヴィンセントが、シアーズ・タワーの九〇階を襲撃するヤマの小説だ。侵入経路は壁面のみ。彼らは地上千フィートの高さの階上からロープをつたって這い下り、その部屋に窓から侵入しようとするのである。パーカーならば、こんな危険な方法は絶対にとらない。明らかに自己の肉体を駆使して困難に当たることに二人の強盗(とイジー自身)はエクスタシーを感じている(「全知全能だと感じる喜びの断続的な大きな波が彼の体の中を通り過ぎていき、彼はそのぞくぞくする感じを爪先で、指で、頭のてっぺんで感じた」)。ロープでお互いの体をつないで高所を伝い降りるという行為に、登山におけるザイル・パートナーの関係が重ねあわされていることは言うまでもない。そう言えば、『友はもういない』でも、身体が重要なキーワードになっている。金庫破りのフェイブとドラルは、仕事の際にはドラルの家にあるウェイトマシンの下にひそませた仕事道具を取り出す必要があるのだが、その都度彼らは一人六〇〇ポンド、二人合わせて千二〇〇ポンドのウェイトを動かさなければならないのだ。この肉体を酷使する儀式が、パートナーシップの確認には不可欠なのである。
やはり、イジーは七〇年代から八〇年代前半にかけての行き詰まりを肌で感じてきた世代の作家なのだろう。その頃のハードボイルド小説は内省の方向に進み、内面を洞察する文学としては成熟しながらも、状況を描く小説としては後退した。八〇年代後半は、閉塞的なモノグラフからの脱却が指向された時期なのである。イジーは、伝統的なノワールのプロットを用いて、作者=主人公の中に固く自閉しようとする自己を解放しようと試みたのである。その意味では真のノワール作家とは呼びがたいのかもしれないが、例えば日本におけるノワール復古の風潮(馳星周のデビューを契機とした)を見れば、そういった文学的挑戦はある程度首肯できるものなのではないだろうか。
尚、イジーは一九九六年一二月七日に不可解な死を遂げた。ビルの一四階にある彼のオフィスの窓からロープを吊るして縊死した状態で発見されたのだ。シカゴ市警は自殺と断定したが、それはイジーの部屋が施錠された状態だったからだ(平素からパラノイアックで精神の均衡を欠いていたという証言もあった)。だが、部屋のデスクの上には三八口径のリボルバーが置かれ、彼は防弾チョッキを着込んだ上に、ポケットにはブラスナックルを入れていた。イジーは民間武装グループとの間に深刻な取材トラブルを抱えてもおり、武装して警戒しなければならない状況だったのだ。
さらに、ポケットからはもうーつ、八〇〇枚程度の書きかけ原稿が収められたフロッピーが発見されたが、その中にはなんとミステリー作家が民間武装グループに襲撃され、窓の外に吊るされる窮地に陥るという場面があったのである。果たしてこれが、自殺であるのか、他殺であるのか、それともイジーが小説にリアリティを重視したあまり、自ら実験を行って事故死したものであるのか、警察発表とはうらはらに謎は解明されていない。いくら詮索したところで実際の原因はわからないが、もし最後の可能性だとすれば、身体のリアリズムにこだわったイジーの作家生活とはなんだったのだろうか。
【必読】『友はもういない』『無法の二人』『地上九〇階の強奪』
『友はもういない』に始まるイジーのシカゴ犯罪小説の特徴は、サーガを意識していることにある。『友はもういない』のアンダーグラウンド世界設定が、後の作品にも継承されていくというように、一連の作品を通読すると大河小説となるような配慮がなされているのである。こうした趣向の作品は他の作家でも枚挙に暇がないが、代表例を上げるとすればリチャード・コンドンのプリッツィ・ファミリー四部作などだろうか。おそらくイジーは相当に先行作品を研究して『友はもういない』を書き始めている。強烈に意識されているのは、リチャード・スタークだろう。同書で披露される強盗哲学には、明らかに悪党パーカーの世界観から移植されたものが少なくない。続く『無法の二人』の主人公二人の対立図式は、エルモア・レナード『野獣の街』である。この小説で、囮捜査官ジンボをつけ狙うジジ・パーネルは母親に強い固着を示していることから"白熱強盗"と呼ばれている男だが、これは、ラオール・ウォルシュ監督『白熱』(四九)でジェイムズ・キャグニーが演じたマザコンのギャングがモデルである。また、ジンボが彼のことを『死の接吻』(四七)でリチャード・ウィドマークが演じた殺し屋になぞらえる場面もある。このようにフィルム・ノワールへの言及も抜け目なくなされている。
こうした先人への敬慕の念を取り払ってみたところに、イジーの独自性がある。それは身体性への過剰な愛着であり、期待だ。『地上九〇階の強奪』は、腕利きの金庫破りであるボロと、若き相棒のヴィンセントが、シアーズ・タワーの九〇階を襲撃するヤマの小説だ。侵入経路は壁面のみ。彼らは地上千フィートの高さの階上からロープをつたって這い下り、その部屋に窓から侵入しようとするのである。パーカーならば、こんな危険な方法は絶対にとらない。明らかに自己の肉体を駆使して困難に当たることに二人の強盗(とイジー自身)はエクスタシーを感じている(「全知全能だと感じる喜びの断続的な大きな波が彼の体の中を通り過ぎていき、彼はそのぞくぞくする感じを爪先で、指で、頭のてっぺんで感じた」)。ロープでお互いの体をつないで高所を伝い降りるという行為に、登山におけるザイル・パートナーの関係が重ねあわされていることは言うまでもない。そう言えば、『友はもういない』でも、身体が重要なキーワードになっている。金庫破りのフェイブとドラルは、仕事の際にはドラルの家にあるウェイトマシンの下にひそませた仕事道具を取り出す必要があるのだが、その都度彼らは一人六〇〇ポンド、二人合わせて千二〇〇ポンドのウェイトを動かさなければならないのだ。この肉体を酷使する儀式が、パートナーシップの確認には不可欠なのである。
やはり、イジーは七〇年代から八〇年代前半にかけての行き詰まりを肌で感じてきた世代の作家なのだろう。その頃のハードボイルド小説は内省の方向に進み、内面を洞察する文学としては成熟しながらも、状況を描く小説としては後退した。八〇年代後半は、閉塞的なモノグラフからの脱却が指向された時期なのである。イジーは、伝統的なノワールのプロットを用いて、作者=主人公の中に固く自閉しようとする自己を解放しようと試みたのである。その意味では真のノワール作家とは呼びがたいのかもしれないが、例えば日本におけるノワール復古の風潮(馳星周のデビューを契機とした)を見れば、そういった文学的挑戦はある程度首肯できるものなのではないだろうか。
尚、イジーは一九九六年一二月七日に不可解な死を遂げた。ビルの一四階にある彼のオフィスの窓からロープを吊るして縊死した状態で発見されたのだ。シカゴ市警は自殺と断定したが、それはイジーの部屋が施錠された状態だったからだ(平素からパラノイアックで精神の均衡を欠いていたという証言もあった)。だが、部屋のデスクの上には三八口径のリボルバーが置かれ、彼は防弾チョッキを着込んだ上に、ポケットにはブラスナックルを入れていた。イジーは民間武装グループとの間に深刻な取材トラブルを抱えてもおり、武装して警戒しなければならない状況だったのだ。
さらに、ポケットからはもうーつ、八〇〇枚程度の書きかけ原稿が収められたフロッピーが発見されたが、その中にはなんとミステリー作家が民間武装グループに襲撃され、窓の外に吊るされる窮地に陥るという場面があったのである。果たしてこれが、自殺であるのか、他殺であるのか、それともイジーが小説にリアリティを重視したあまり、自ら実験を行って事故死したものであるのか、警察発表とはうらはらに謎は解明されていない。いくら詮索したところで実際の原因はわからないが、もし最後の可能性だとすれば、身体のリアリズムにこだわったイジーの作家生活とはなんだったのだろうか。
【必読】『友はもういない』『無法の二人』『地上九〇階の強奪』
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