読書日記

松下 幸之助『道をひらく』(PHP研究所)、岩瀬 達哉『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮社)

  • 2019/06/05

半歩遅れの読書術――2つの異なる松下幸之助像、矛盾は矛盾なく同居する

読書の愉悦。そのツボは人によってさまざまだろうが、僕の場合は論理に触れ、論理を獲得することにある。論理というと何やら堅く聞こえるが、平たく言えば「ようするに、そういうことか……」。僕にとっての読書の価値は、情報や知識を仕入れることではない。人と人の世について、腹落ちする理解を得る。これほど面白いことはない。

松下幸之助著『道をひらく』(PHP研究所)。今もなお読み継がれている名著だ。自らの拠(よ)って立つ思想と哲学が実に平易な言葉で書かれている。特別なことは何もない。「自分の道を歩む」「素直に生きる」「本領を生かす」――言われてみれば当たり前のことばかり。

にもかかわらず、この本がここまで大きな影響をもつに至ったのはなぜか。幸之助は、言葉において強烈なのである。言葉が腹の底から出ている。フワフワしたところが一切ない。本質だけを抉(えぐ)り出す。一言一言に実体験に根差したリアリティがある。繰り返し困難に直面し、考え抜いた先に立ち現れた人間と仕事の本質を凝縮する。だから言葉が深い。直球一本勝負。やたらと球が速い。しかも、重い。

道をひらく / 松下 幸之助
道をひらく
  • 著者:松下 幸之助
  • 出版社:PHP研究所
  • 装丁:文庫(271ページ)
  • 発売日:1968-05-01
  • ISBN-10:4569534074
  • ISBN-13:978-4569534077

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ところが、である。岩瀬達哉著『血族の王 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫)を読むともう一つの幸之助像が浮かび上がってくる。数限りない幸之助伝の中で異彩を放つ本書は、「正史」には書かれなかった人間・幸之助の姿を直視する。

むき出しの利益への執念。妾宅(しょうたく)との二重生活。袂(たもと)を分かち三洋電機を創業した井植歳男との確執。成功体験にとらわれ迷走する晩年期。ひたすらに血族経営に執着する姿はもはや老醜といってよい。「素直な心」どころではない。

「これまで見た中で首尾一貫した人は誰一人としていなかった」――サマセット・モームの結論である(『サミング・アップ』岩波文庫)。一人の人間の中に矛盾する面が矛盾なく同居している。そこに人間の面白さと人間理解の醍醐味がある。

『血族の王』を読んだ後で、『道をひらく』を再読する。いよいよ味わい深い。ますます迫力がある。「素直さは人を強く正しく聡明(そうめい)にする」――幸之助は自らの矛盾と格闘し、念じるような気合を入れて自分の言葉を文章にしたのだと思う。彼の言葉は「理想」ではなく、文字通りの「理念」だった。だからこそ、『道をひらく』は人々の道標になり得たのである。

人間ゆえの限界を差し引いても、なお日本最高にして最強の経営者。幸之助への尊敬がつのる。
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初出メディア

日本経済新聞

日本経済新聞 2019年5月4日

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