書評
『阿片茶』(集英社)
ワインと阿片茶
最近、中国でまた阿片が復活してすごいみたいだ。事実、僕の知っている中国人青年も、やってるよ、とこともなげに答えた。僕は吸ったことはないのだけれど、じつはワインと阿片ののみかたの極意は共通で、しかもそれがごく単純な方法なものだから、ワインのほうで毎晩実践している。ヒントは、上出来の小説のように面白い、最近出た回想録にあった。彼女は阿片の薄黒い練り粉を白檀の棒の先に塗りつけ、ランプの火にかざして温めた。それがクリーム状に固まり、燃え始めるとパイプに入れられた。私たちはその苦い煙を肺まで吸い込まず、口の中にとどめて歯茎の粘膜から血液に吸引させた。(『阿片茶』)
ワイン、特に赤は口中に遊ばせてからのむべし、とは前から知って実践していたことだが、右の一節に出くわして以来、深夜、わが書斎のソファに身を沈めて横浜港の灯りを眺めながら、これを阿片のようにじっくり口中にとどめ、歯茎の粘膜から血液に吸引させてのむようになった。すると不思議、ワインの味に奥行きが増し、酔いが尋常ならざる甘美、淫靡なものに変わった。錯覚か。とにかく、いまや僕はワインを歯茎でのむ。
『阿片茶』という本は、ビアンカ・タムという、蔣介石軍エリート将校の中国人と結婚して中国に渡った、遠くメディチ家につながるイタリアの名門伯爵令嬢の数奇な一生を、ビアンカ自身が書き綴ったものだ。読んでる最中に一度ならず、手がうしろに回ってもいいから阿片茶というものをのんでみたいと思わずにはいられなかった。
たとえば、十六歳の絶世の美少女ビアンカが、イタリア陸軍士官学校に留学してきた中国人青年タム・ジャン・チャウと出会って魂を奪われ、周囲の猛烈な反対を押し切って結婚式をあげた夜、タムが妻に阿片茶をいれてやってのませ、セックスをする場面などには思わず溜息が出た。
ビアンカはタムとの間に五人の子をつくり、やがて戦地にいるタムと別れ、一九四〇年代の上海で、昼は高級ブティックの高名なデザイナー、夜は高級娼婦として鳴らし、また日本軍のスパイとしても活躍した。日本の敗戦と共に逮捕され、金の不正売買、日本の真珠湾攻撃と係わったスパイ行為による国家反逆罪にとわれて、死刑の判決を受けたが処刑当日、蔣介石の恩赦で免れた。
ヨーロッパにもどってからはクリスチャン・ディオールの片腕として名声を博し、一九九四年、七十四歳、ローマで死んだ。四度結婚し、七人の子をもうけ、死刑囚として広東にいたとき、同じ死刑囚の日本人青年将校、ヤマモトと焼けるような恋をした。華麗、波瀾万丈の生涯というほかない。
だがまてよ。これってほんとうに回想録なんだろうか。ひょっとして偽回想録、つまりフィクションなのでは? と思えるほど面白いのだ。
特にヤマモトとの恋はできすぎのような気がする。この二十二歳の美貌の日本軍人はビアンカに、「死というものは凡庸な生よりも尊い」なんてのたもう。三島由紀夫なら随喜の涙を流したであろうような青年なのだ。
ビアンカとヤマモトは収容所の片隅で毎晩逢い引きし、セックスに耽る。彼女の快楽にはもはや阿片はいらない。ビアンカは言う。「私たちは死ぬ運命にあるから愛し合えるのよ」
もうひとつの疑惑。ほんとうにこれほど美しくきらびやかなイタリア女性を、わが帝国陸軍はスパイとして使っていたのだろうか。
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