戦時下の人々描く八つの短編
スピルバーグ監督の映画「ターミナル」(2004年)は、空港から出られない男を描いたコメディだった。飛行機に乗っている間に母国でクーデターが起きて、パスポートが無効になってしまったのだ。トム・ハンクス演じる主人公は、ニューヨークの空港施設で寝起きして、独学で英語を習得し、働き、友だちを得た。外国の侵略や内戦などによって母国に帰れない人びとが現在もいる。映画のようにハッピーエンドを迎えられるとは限らない。ガザ、ウクライナ、ミャンマー、香港……どんなに辛く心細いことだろう。アレクサンダル・ヘモンは1964年に旧ユーゴスラビアのサラエヴォで生まれた。92年、文化交流プログラムでアメリカに滞在中、サラエヴォはセルビア人勢力に包囲される。アメリカに残ることにしたヘモンは、職を転々としながら英語で作品を書いた。いまでは現代アメリカを代表する作家のひとり。本書はヘモンの最初の本で、アメリカでは2000年に出た。ぼくは都甲幸治の『生き延びるための世界文学‥21世紀の24冊』(14年、新潮社)で存在を知り、邦訳を待っていた。
八つの短編小説で構成されていて、それぞれ作風も長さも違う。たとえば「アルフォンス・カウダースの生涯と作品」はカウダースという人物についての短い文章がたくさん並び、最後に註がついている。各短文で書かれていることの多くは下品で猥褻でハチャメチャ。ローザ・ルクセンブルクに言い寄ったり、エヴァ・ブラウンを妊娠させたり。蛇足だけど、前者はドイツの革命家で後者はヒトラーの妻だ。
都甲の本でも紹介されている「ゾルゲ諜報団」は、スパイではないかと父親を疑う少年の話。しかも少年はチトーに監視されていると思っている。チトーがテレビを使って国民全員を見ていると思い、テレビのプラグを抜き、毛布を掛ける。チトーはユーゴスラヴィアの大統領で、ソ連とは距離を置く非同盟主義を主導した。チトーは他の短編にもよく出てくる。アメリカで生きることを選んだ著者にとって、チトーがどう見えていたのかがわかる。
衝撃的なのが「コイン」。<地点Aと地点Bがあり、地点Aから地点Bへ行くには腕利きの狙撃兵から丸見えの開かれた空間を通らねばならないとします。>という文章で始まる。セルビア人勢力に包囲されたサラエヴォの様子を伝える手紙と、それを読む「僕」の独白。手紙に書かれていることは残酷でグロテスクなのに、文章は冷静で淡々としている。それを読む「僕」は遠く離れたところにいて無力だ。
サラエヴォは猫のいない街です。人が餌をやれなかったから、または逃げるときに連れていけなかったから、あるいは飼い主が殺されたからです。
人間も猫と同様の扱い。喘息を患っていたファティマ伯母さんは、薬もなくなり外にも出られず窒息して死んだ。だが砲撃と狙撃が続くなか埋葬できず、伯母さんは腐敗していく。ついにはシーツに包んで窓の外に押し出すことに。伯母さんの遺体は窓の下で白い山となり、腐敗し分解していく。
吐き気をこらえてこの小説を読みながら、ガザの人びとを思わずにいられない。もううんざり。すべての戦争をただちに止めろ。