書評
『翻訳地帯――新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(慶應義塾大学出版会)
現代の翻訳学に必須の一冊
Adjudantへの誤訳ひとつが普仏戦争の引き金となった――待望の邦訳書がついに刊行された本書には、そんな記述がある。この語は独語では「副官」を意味するが、仏語では「曹長」を指す。しかもこの文書にはビスマルクが戦意を煽(あお)るための“故意の誤訳”(捏造(ねつぞう))があった。翻訳とは、言語学や文学、語学教育、せいぜい各国のおつきあいの際に必要なツールとみなされてきたろう、と本書(の原書)は言う。しかし翻訳とはもろに政治の場であり、戦場であり、知力の武器そのものだ。通訳の仕方で裁判の行方が左右される韓国系作家の『通訳/インタープリター』や、ユダヤ人カトリック神父をモデルにした『通訳ダニエル・シュタイン』といった小説を読んでもわかるとおり。言語的マイノリティに属する人間なら古くから気づいていよう。
英語帝国アメリカはこうした事実を、9・11テロで今さらながら痛感し、翻訳に対する意識が急激に高まった。これの副次的効果は、翻訳文学の専門出版社が雨後の筍のごとく増殖、成長したことだ。
さて、『翻訳地帯』は巻頭に、「翻訳可能なものはなにもない」から「すべては翻訳可能である」まで二十の命題を掲げている。書中には、「翻訳は災害」「戦争とは誤訳や食い違いの極端な継続」「翻訳とはクローンのクローン」といった刺戟(しげき)的な定義も満載だ。しかし本書の主要な狙いの一つは、翻訳を新たな比較文学の土台として捉え、その根幹的な役割を論じることである。
第一部第三~四章では、アウエルバッハ、シュピッツァー、そして「テクスト(原文)なんかなくてもよい」として学界を挑発した『遠読』の著者モレッティら(と、ベンヤミン、サイードは当然ながら)の理念が俎上(そじょう)に載せられる。シュピッツァーの「無翻訳」は興味深い。なるほど、ヴェヌティの異化翻訳のような訳業上の操作ではなく、他言語を「翻訳しない」という戦略により、逆説的に翻訳者の存在を可視化しているのだ。
第二部では、新たな世界文学における、文学カノンのグローバル化について考察する。ショインカ、ラシュディ、ガルシア=マルケス、ゴーディマー、マフフーズら、近年ほとんどカノン化している非西洋の必読作家リストも、翻訳という政治力が働いた結果生まれたものである。なにが訳されなにが訳されないのか。「複言語ドグマ」と題する第七章には、ことさら翻訳を拒むような「言語的縛り」のある作品が取り上げられているが、それに挑む翻訳チームの獅子奮迅ぶりがすさまじい! あらゆる文字や単語の縛りを課したLes Revenentes「帰遷(きせん)せし女々(めめ)」というペレックの小説を(英訳から)日本語のイ・エ段のみで訳す。「土耳古帽(フエジ)下手連十(げてれんじい)に七人賃入りし。……驪馬(りめ)瀕死(ひんし)、四肢へべれけ、して死に逝(い)きし」……。『フィネガンズ・ウェイク』の名訳家も天国から喝采を送っているのではないか。
第三部の「言語戦争」はアングロフォン支配への様々な抵抗の形を考察する。「戦争と話法」では、ナイジェリアの、ピジン語をベースにして戦争と幽霊を書いたサロ=ウィワとチュッオーラを例にとり、権力への反乱と密林の暴力を語法で体現し、「話法としての(、、、、)戦争」を行っていると見る。また第十二章ではクレオリテの問題を扱い、カリブ版『嵐が丘』たる『移り住む心』を書いたマリーズ・コンデとブロンテを比較。「才能ある女性の『怪物じみた』声として自作を提示することへ個人的不安を抱く」ブロンテと、「フレンチクレオール語を国際文学の言語に昇格させる困難と格闘する」コンデはパラレルな関係にあるとする。
第四部「翻訳のテクノロジー」では、翻訳と批評の“クリティカル・ハビタット”に端を発し、レクスロスの贋作(がんさく)翻訳や“心霊翻訳”というべき現代詩「サンドーヴァーでの変化する光」といったオリジナルなき翻訳や、ネットリッシュ(ネット時代の多様な英語)の問題が論じられ、批評のパラダイムシフトが提示される。ダムロッシュの『世界文学とはなにか?』と並んで、現代の翻訳学に必須の、圧巻の一冊である。(秋草俊一郎、今井亮一、坪野圭介、山辺弦訳)
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