本書は「翻訳 translation」という事象をさまざまな観点から論じた入門書だ。
翻訳と言えば、日本では「ヨコのものをタテになおす」的な発想が根深いが、歴史的にも、日常のレベルにおいても、広義の翻訳は私たちが思考し、生活を営むうえでも欠かせないものだ。翻訳とは言葉と言葉をたんに置きかえることではなく、言語や文化が接触するところにかならずおこるものでもある。それは、必ずしも「外国」語や「異国」文化でなくてもかまわない。自国語や自国文化のなかでさえ、翻訳が必要とされる局面は多々あるのだ。
翻訳を「ヨコのものをタテになおす」、つまり「ことばとことばを置きかえる」と単純にとらえてしまうと(本書ではそれに類似する概念に「厳密に定義された翻訳」という用語があてられている)、昨今のように、ブラウザ上のボタンひとつで「翻訳」がおこなえてしまう時代にあっては、かんたんに原文の「等価物」が入手できるという思いこみにもつながりかねない。また、学校のテストや入試で課される英文和訳は、翻訳に「正解」があるという思いこみも生む。その結果、原文をそのまま訳した「直訳」や、その対義語としての読みやすい、わかりやすい「意訳」という用語をなんとなしに使ってしまったりもする。
本書は、そのような思いこみの霧を晴らしてくれる。実は翻訳はひとつの「解釈」であって、自動的に正解を案出するようなものではない。ことばに込められた「意味」(内包的にせよ、指示的にせよ)すら、単純な置きかえでは十全には表現することはできない。「直訳」や「意訳」は(そしてより厳密な用語である「同化的翻訳」や「異化的翻訳」も)、ある観点から見ればそう言えるというものであって、別の観点から見ればまったく逆のことも言えてしまうものだ。ただし、翻訳がただの「解釈」ではないのは、文学作品などの場合顕著だが、翻訳はさらに解釈を必要とするものだからだ。
また、翻訳を「ヨコのものをタテになおす」と狭くとらえてしまうと、漢語の日本語へのとりいれや、漢文訓読などの歴史ある営みを見落としてしまうことになる(「タテからタテに」の翻訳だ)。本書でも触れられている漢文訓読は、特異な「翻訳」として、近年翻訳研究においても注目をあつめている。
レイノルズは漢文訓読をふたつの言語のあいだの「中立地帯」と表現し、翻訳のあらたな可能性を見いだそうとする。本書では十分なスペースが割かれているわけではないが、日本では古くより、異国の言語である漢文を特殊な方法を用いて解読してきた。その結果、一種のクレオール語である「漢文訓読語」が生まれ、日本語の中にとりこまれていった。漢語の輸入などもふくめ、私たちがその翻訳性を意識しないのは、それがあまりに日本語と不可分になってしまったせいもあるだろう。もちろん、明治期には言文一致運動があり、西洋文学の翻訳をつうじて、日本語はさらにつくりかえられることになる。私たちの言語活動自体が、実は「翻訳」ぬきには考えられないのだ。
[書き手]秋草俊一郎(日本大学大学院総合社会情報研究科准教授/ナボコフ研究、比較文学、翻訳研究など)