生き物すべてにあるに違いない哲学教室
二十一話からなる動物哲学物語。ツキノワグマ、ニホンザル、ニホンジカ、コウモリ、ザトウクジラ、モグラ、アホウドリ、ナマケモノ、アルマジロ、オオアリクイ、カピバラ、イグアナ、コウテイペンギン、ガビチョウなど主人(動物)公は多彩だ。タイトルになっているリスの話を見よう。リスのQ青年は、雑木林で一つ一つのどんぐりが落ちる場所は不確かなのに、総体ではクヌギの木を囲む円の中に落ちる確かさがあることに気づく。またクヌギの芽は自分がどんぐりを埋めたところだけに出てくるという植物と動物の関係にも気づき、「根源的な力によってつくられた法則」があることに驚くのだ。僕が「ここに在る」のもその確かさの結果である。そう考えながらも、今Q青年にとって大事なのは、恋するリスに逢(あ)うことなのだ。それにはクヌギ林を抜けて野原を突っ切らなければならない。Q青年が走ると相手のリスも向こう側から駆けてきた。そこにオオタカが現れたのだ。彼女が狙われる。咄嗟(とっさ)にQ青年は彼女にクヌギ林に駆け込めと命じて、自分は野原を懸命に駆けた。そしてオオタカの爪が背中に食い込む直前に思った。「ボクらリス族が生き延びるのは確かなことだ。それは、この世の根源の力の、確かな意志だからだ!」。確かなリスの不確かさである。
SDGsの影響もあって、近年生物多様性への関心は高まっており、森林破壊で絶滅に追いやられる種、外来種の持ち込みによる地域の自然生態系の破壊など多くの問題が指摘されている。しかし、多様性という言葉で考えているだけでは、問題の本質は見えてこない。生きものそれぞれに目を向け、更には一つ一つの個体が懸命に生きていることを知ることで初めて、多様な種の一つである人間の生き方が見えてくるのだと思う。実はQ青年はタイワンリスであり、農作物に害を及ぼすことから二〇〇五年に特定外来生物として害獣指定されている。「ここに在る」ことへの問いは、一層深刻というわけだ。
もう一つ、「キツネのお姉さん」を紹介しよう。キツネは前年生まれのメスが子育てを手伝うという習性がある。野鳥のヒナなどを捕って幼い弟妹たちに食べさせることを喜びとしているお姉さんの心配は、額に小さな黒点があるのでそのまま「黒点」と呼ぶ弟が弱虫で、兄弟たちの食べる輪に入れないことだ。夜は抱いて眠るようになり、お姉さんの柔らかな毛に顔をうずめた黒点が出すかすかな声に応えるのだった。こうして二つの命が響き合い、「間柄」が生まれた。そしてある日、黒点のために養鶏場のニワトリを捕りに行き、トラバサミにつかまってしまう。雪が降り始めた。なんとかして抜け出したが後ろ脚の先は欠け、三本脚でなんとか戻ってきた巣穴のそばにあったのは小さな亡骸(なきがら)だった。亡骸をお腹(なか)にくるみ、遠のいていく意識の中でお姉さんは思った。「黒点よ。わたしはお前とだけつながっていたのではなかったのだね。今、雪が覆っているこの河川敷とも。あのヒナたちとさえ……」
動物たちについての深い知識と愛情とがないまぜになった、柔らかで美しくユーモアのある文からは、彼らの声がそのまま聞こえてくる。隣で読んでいる長女の「なぜどのお話もこんなに哀(かな)しいのかしら」というつぶやきに、「生きてるからじゃない」と答えながら、著者にお礼を言っていた。常に真剣に考え、時に悩みながら誠実に生きている動物の声を、ヒトという仲間としてていねいに聞きとって下さってありがとうございますと。
二十一話(あとがきに代えて)でガビチョウが、「みんな森を持っているんだ。そこには形のない木の実が落ちている。でも、木の実から芽が出ると、物語のなかで夢見るシカになったり(中略)するんだ」と言う。著者は、森の神様に言葉を下さるようにお願いをし、森にある形のない木の実、つまり哲学から、みごとな物語を紡ぎ出したのだ。誰もが森とそこにある形のない木の実を持っているのに、ほとんどの人がそれに気づかずにいるのが現代社会だ。哲学に充(み)ちている動物界の一員のはずなのに、それにソッポを向き、お金という虚構に振り回され、それを得ることで手にした権力を振り回し、遂にはミサイルやドローンで子どもたちの命を奪っているのはなぜなのだろう。一番の謎だ。
随所にスピノザ、老子、般若心経、和辻哲郎などの名前が見えるので分かるように、哲学書から学ぶことの重要さは本書でも示されてはいる。けれど、今大事なのは、一つの動物として森を思い出し、自分の木の実を探し出すことだろう。動物仲間と話し合うことで、生きものから外れてしまった歩みを元に戻したら、生きやすい日常が見えてくるはずだ。実は、植物や昆虫や魚……いやバクテリアだって哲学物語を持っているに違いなく、それも聞いてみたくなった。イグアナが言う。「わしらはわしらを超えていくことで、本当のわしらになるのじゃよ」と。