コラム
秋野 不矩『秋野不矩 インド』(京都書院)、秋野 不矩『画文集バウルの歌』(筑摩書房)
秋野不矩さんの絵について、司馬遼太郎は、
と、『秋野不矩 インド』(京都書院)の中で解説しているが、そのとおりだと思う。
このたび刊行された二冊の本のページを繰りながら改めて、どうして不矩さんの絵は「いきものがもつよごれ」から自由なのかを考えた。
まず、テーマがインドということがある。詩人タゴールが創設した大学に招かれて以来、今日まで三十余年の間、計四十ヵ月も滞在して、インドを描き続けてきた。もう四年も雨が降らないという曠野(こうや)の廃墟、枯れ草に埋もれる古碑、日干しレンガの僧院、などを好んで描いていることから知られるように、この画家の筆はインドの「乾燥」を把(かえ)えようとしている。乾いた大地と空気は、汗も血もそしてあらゆる有機物をも微粉にして風に飛ばす力を持つ。いきもののよごれを乾いた微粉と化して大地に還(かえ)すには、インドが一番なのである。
ここに一つ謎が生まれる。戦後の若い画家やヒッピー体験者ならともかく、秋野不矩は当年八十四歳、京都画壇の長老、文化功労者、そして女流である。日本画のテーマは花鳥風月が基本で、とりわけ京都の女流・長老となれば、湿潤の京都の豊かな自然を濃やかな筆先で描くのが任務とさえいえるのに、まるで湿った京都を嫌がるようにしてインドに跳んでしまった。
この謎の手掛かりは、『画文集 バウルの歌』(筑摩書房)に集められた文章の中に読みとることができる。昭和六年、弱冠二十三歳で帝展に初出品・初入選を果たし、そして翌年に出した絵は、
どうも昭和六年の時点で、花鳥風月とは別の世界に引かれながら、しかし、踏み出すことは出来ず、戦後になって五十歳を過ぎてからインドと出会い、ついに本当の我が道を発見した、ということなんだろう。
しかし、インドの乾いた大地と空気、そしてそこに生きるバウル(吟遊詩人)と出会って目覚めたからといって絵になるというものではない。日本画は花鳥風月を相手に絵の具も筆も描法も発達してきた。豊かな自然を濃(こま)やかに描くための技法が、はたしてインドの曠野に通用するだろうか。
実際に秋野不矩の日本画の前に立つと、インドの乾いた空気とよごれなき大地が紙の上にあやまたず定着しているのが分かる。絵の表面が、まるで風に流れる砂漠の砂のようにサラサラしているのだ。技法としては、和紙の上に金箔を貼り(金屏風と同じ)、その上に伝統の絵の具を伝統の筆でやや厚めに置いてゆくのだという。
ハタと納得するところがあった。日本画の絵の具は、洋画用の油絵の具との対比で「岩絵の具」と呼ばれ、名のとおり色のついた岩や鉱物を砕き、磨(す)ったもので、科学的に見ると微小な砂の集まりなのだ。砂の粒を和紙の上にニカワで定着したのが日本画ということになる。
日本画とは紙の上に広がる砂漠である、という科学的事実にはじめて気づいた(おそらく無意識に)のが秋野不矩ではあるまいか。われながらトンデモナイことを書いているが、不矩さん本人が絵の具について書いた文を傍証として引いてみよう。
天竜川ぞいの田園地帯(現・静岡県天竜市)に生まれ育った彼女が、絵を学ぶため京都に上り、はじめて本格的な絵の具を買った日のこと。
すでにスタートから、「粒子の粗い……黄系統」の岩の粒に魅せられている。
そして、インドの大学ではじめて日本画を教えた時のこと。
インドの乾いた地面をさして、「あそこは黄土の絵の具がいっぱいある」と言った画家はかつていただろうか。この二冊の本で秋野不矩の絵を見、文を読むと、花鳥風月とはまったく別の日本画の世界があることが分かる。
【このコラムが収録されている書籍】
いきものがもつよごれを、心の目のフィルターで漉(こ)しに漉し、ようやく得られたひと雫(しずく)。
と、『秋野不矩 インド』(京都書院)の中で解説しているが、そのとおりだと思う。
このたび刊行された二冊の本のページを繰りながら改めて、どうして不矩さんの絵は「いきものがもつよごれ」から自由なのかを考えた。
まず、テーマがインドということがある。詩人タゴールが創設した大学に招かれて以来、今日まで三十余年の間、計四十ヵ月も滞在して、インドを描き続けてきた。もう四年も雨が降らないという曠野(こうや)の廃墟、枯れ草に埋もれる古碑、日干しレンガの僧院、などを好んで描いていることから知られるように、この画家の筆はインドの「乾燥」を把(かえ)えようとしている。乾いた大地と空気は、汗も血もそしてあらゆる有機物をも微粉にして風に飛ばす力を持つ。いきもののよごれを乾いた微粉と化して大地に還(かえ)すには、インドが一番なのである。
ここに一つ謎が生まれる。戦後の若い画家やヒッピー体験者ならともかく、秋野不矩は当年八十四歳、京都画壇の長老、文化功労者、そして女流である。日本画のテーマは花鳥風月が基本で、とりわけ京都の女流・長老となれば、湿潤の京都の豊かな自然を濃やかな筆先で描くのが任務とさえいえるのに、まるで湿った京都を嫌がるようにしてインドに跳んでしまった。
この謎の手掛かりは、『画文集 バウルの歌』(筑摩書房)に集められた文章の中に読みとることができる。昭和六年、弱冠二十三歳で帝展に初出品・初入選を果たし、そして翌年に出した絵は、
野良犬が荒野を彷徨(さまよ)って歩く図であったが、これは見事に落選し、私は失意の底に沈んだ。……あばらも透けて見える野良犬は美の対象には認められなかったようだ。翌年は白萩の陰に湯浴みする少女で入選、その後落ちることはなかった。しかし『野良犬』が入選したならば、もっと自分の世界を追求してゆけたであろう。やはり落選せぬような絵を描くこととなり、残念に思ったことである。
どうも昭和六年の時点で、花鳥風月とは別の世界に引かれながら、しかし、踏み出すことは出来ず、戦後になって五十歳を過ぎてからインドと出会い、ついに本当の我が道を発見した、ということなんだろう。
しかし、インドの乾いた大地と空気、そしてそこに生きるバウル(吟遊詩人)と出会って目覚めたからといって絵になるというものではない。日本画は花鳥風月を相手に絵の具も筆も描法も発達してきた。豊かな自然を濃(こま)やかに描くための技法が、はたしてインドの曠野に通用するだろうか。
実際に秋野不矩の日本画の前に立つと、インドの乾いた空気とよごれなき大地が紙の上にあやまたず定着しているのが分かる。絵の表面が、まるで風に流れる砂漠の砂のようにサラサラしているのだ。技法としては、和紙の上に金箔を貼り(金屏風と同じ)、その上に伝統の絵の具を伝統の筆でやや厚めに置いてゆくのだという。
ハタと納得するところがあった。日本画の絵の具は、洋画用の油絵の具との対比で「岩絵の具」と呼ばれ、名のとおり色のついた岩や鉱物を砕き、磨(す)ったもので、科学的に見ると微小な砂の集まりなのだ。砂の粒を和紙の上にニカワで定着したのが日本画ということになる。
日本画とは紙の上に広がる砂漠である、という科学的事実にはじめて気づいた(おそらく無意識に)のが秋野不矩ではあるまいか。われながらトンデモナイことを書いているが、不矩さん本人が絵の具について書いた文を傍証として引いてみよう。
天竜川ぞいの田園地帯(現・静岡県天竜市)に生まれ育った彼女が、絵を学ぶため京都に上り、はじめて本格的な絵の具を買った日のこと。
放光堂という古い老舗(しにせ)に出掛けると、実にさまざまな岩絵の具が棚にずらりと並んでいる。私は見ているだけでも楽しかった。粒子の粗い岩絵の具がめずらしく、それを使ってみたいと思った……粗い黄系統の岩絵の具を思い切り使って……
すでにスタートから、「粒子の粗い……黄系統」の岩の粒に魅せられている。
そして、インドの大学ではじめて日本画を教えた時のこと。
インドの大地は赤土であるから黄土色だけは濃いのも淡いのもいくらでもある。私は学生に校庭をさして、あそこに黄土の絵の具がいっぱいあるから、あれで描こうと言って……。遠足等にゆくと岩山の道で雲母を見つけたり、シャンチニケータンの河原では、中が空洞で、ポンと割ると辰砂(しんしゃ)のように赤い小石を拾ったことがある。アジャンタのあたりの岩をよく見ると、その中に小さな緑青(ろくしょう)が点々と……
インドの乾いた地面をさして、「あそこは黄土の絵の具がいっぱいある」と言った画家はかつていただろうか。この二冊の本で秋野不矩の絵を見、文を読むと、花鳥風月とはまったく別の日本画の世界があることが分かる。
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