前書き
『ギュスターヴ・モロー―絵の具で描かれたデカダン文学』(六耀社)
ギュスターヴ・モロー(一八二六~一八九八)は、美術史において、音楽史におけるワグナーと同じような位置を占めている。
理由の第一は、彼らが選びとった芸術分野以外のところで計りしれぬほど大きな影響を及ぼしながら、そのジャンルの内部においては結局ついに一人の後継者も持ちえなかったということ。
第二は、その独特のスタイルも、他の芸術分野から影響を受けたもののほうがはるかに多く、そこから他のだれにも真似のできない芸術を作り出していったということ。
したがって、すくなくとも、こうした影響関係から見た場合、ギュスターヴ・モローはメイン・ストリームからは外れた孤高の芸術家として扱わざるをえないことになる。
もちろん、絵画史において、象徴主義の絵画という流派を設けて、モローをここに入れることもできなくはない。だが、それとても、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやルドンと同じ枠でくくるのには無理がある。
また、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教え子であるマチス、マルケ、ルオーなどフォーヴの画家たちとの間に影響関係を見ることは容易ではない。ルオーはのちにモローのアトリエが国立の美術館として承認されたとき、初代の館長を務めたが、画風においては、その初期においてもモローの影響は認められない。
ひとことでいえば、同時代との類似性や、のちの世代への影響関係という観点から彼の価値を確定しようとする試みは実りすくないものに終わるほかはないということである。
ただし、どのような画家から影響を受けて自己のスタイルを確立したかということに関してなら、何人かの画家の名前をあげることは必ずしも不可能ではない。つまり、あのギュスターヴ・モローという独特の「化合物」の基礎をなしている成分に関してなら、ある程度、その混淆具合をたどり直すことができるのである。
とはいえ、それは、あくまで途中までのことである。つまり、彼が、一八七六年のサロンにおいて、目覚ましい復活を果たし、ギュスターヴ・モローの画風を確立する以前に限るということである。
したがって、われわれは、とりあえず、この時点までという限定を加えた上で、ギュスターヴ・モローのスタイル誕生の前史をさぐってみるほかはない。
理由の第一は、彼らが選びとった芸術分野以外のところで計りしれぬほど大きな影響を及ぼしながら、そのジャンルの内部においては結局ついに一人の後継者も持ちえなかったということ。
第二は、その独特のスタイルも、他の芸術分野から影響を受けたもののほうがはるかに多く、そこから他のだれにも真似のできない芸術を作り出していったということ。
したがって、すくなくとも、こうした影響関係から見た場合、ギュスターヴ・モローはメイン・ストリームからは外れた孤高の芸術家として扱わざるをえないことになる。
もちろん、絵画史において、象徴主義の絵画という流派を設けて、モローをここに入れることもできなくはない。だが、それとても、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやルドンと同じ枠でくくるのには無理がある。
また、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教え子であるマチス、マルケ、ルオーなどフォーヴの画家たちとの間に影響関係を見ることは容易ではない。ルオーはのちにモローのアトリエが国立の美術館として承認されたとき、初代の館長を務めたが、画風においては、その初期においてもモローの影響は認められない。
ひとことでいえば、同時代との類似性や、のちの世代への影響関係という観点から彼の価値を確定しようとする試みは実りすくないものに終わるほかはないということである。
ただし、どのような画家から影響を受けて自己のスタイルを確立したかということに関してなら、何人かの画家の名前をあげることは必ずしも不可能ではない。つまり、あのギュスターヴ・モローという独特の「化合物」の基礎をなしている成分に関してなら、ある程度、その混淆具合をたどり直すことができるのである。
とはいえ、それは、あくまで途中までのことである。つまり、彼が、一八七六年のサロンにおいて、目覚ましい復活を果たし、ギュスターヴ・モローの画風を確立する以前に限るということである。
したがって、われわれは、とりあえず、この時点までという限定を加えた上で、ギュスターヴ・モローのスタイル誕生の前史をさぐってみるほかはない。
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