250年の時超え現れた…画家の素顔
円山応挙といえば、江戸後期を代表する画家である。ただ、最近二十年は、伊藤若冲がブームで、応挙も霞(かす)んでしまった感がある。若冲・応挙の活躍期は一七七〇~八〇年代前後で、『平安人物志』という当時の京都文化人名鑑をみると、画家の部では、一に応挙、二に若冲、三に与謝蕪村の順番で載せている。応挙と若冲は人気のツー・トップであったが、若冲のほうは、一度、一般には忘れられ平成末年になって人気を取り戻した。一方、応挙は、円山派という絵画流派の祖で、二百五十年間、人気を維持し続けた。そのため、応挙の贋作(がんさく)が山ほど作られた。私も応挙の偽物を山ほどみてきた。「荻生徂徠の書と応挙の絵と幽霊とは本物に出会ったことがないねえ」などと軽口をたたき、古物商を笑わせている。ところが、令和三年の暮れ、古美術商の市に、円山応挙の日記を全面に張り付けた屏風が現れた。「滋賀の所蔵家の蔵品であったことの他には、伝来については分からない」。著者が、この応挙日記を調査し解読した。それに解説をつけて活字化したのが、本書である。応挙は職人気質であったのか、日記の内容はあっさりしている。大方は、作品の制作日誌で、天気のほかは、自分の健康状態と、公家屋敷への出入り、社寺への参詣といったものである。とはいえ、応挙の研究上、この日記の発見は大変助かる。なぜなら、応挙はいつ何の作品を誰に幾らで描いたかを几帳面に記している。「応挙の家計簿」という本でも書けそうな日記で面白い。
例えばこうだ。寛政元年九月十日に、公家の西園寺家に頼まれた三幅対の掛物に取り掛かり、十二日にはだいたい仕上がって西園寺様に御覧に入れた。十四日も描いて、その夜に仕上がったものか、夜は黄檗山(おうばくさん)(萬福寺)に遊びに出かけた。公家屋敷の幅広い床の間に三点セットで掛ける大作には、四日をかけており、代金は三両で九月二十九日に貰(もら)っている。こんな応挙の暮らしぶりが分かる。応挙は、ひがな一日、三幅対などの大作を描き、三、四日で描き上げると、ほっとして夕方から夜に、六条(東本願寺)などに夕飯を食べに出かけるのが常であった。小品は一日で一枚が原則だが、数枚描くこともあった。悩みの種は虫歯のようであり、寛政二年の正月には、三日も歯痛で寝込んでいる。
この日記の発見で、応挙の作品の制作の年代や状況を知る手がかりも得られる。兵庫県香美町の大乗寺の応挙の作品群は有名だが、この寺の住持がやってくると、応挙は饗応に気を配っている。三井などの豪商、松平定信のような幕閣との関係や、皇族・公家・大名・武士・学者との交流も見え、読んでいて面白い。無味乾燥な日記ではあるが、読者の工夫次第で、楽しい読み取りができる。応挙は可愛い犬の絵でも知られる。人気作で二十一点も残っているそうだが、著者によれば、応挙が比較的安価で犬の絵を描いていたためでもあるという。松平定信も応挙の犬の絵を発注して金二分(一両の半分)で手に入れていたのには驚いた。日記は絵よりも画家について雄弁である。