読書日記

石崎晴己『エマニュエル・トッドの冒険』(藤原書店)、水原紫苑『巴里うたものがたり』(春陽堂書店)

  • 2023/03/23

入門書を超える入門書、深く共感できるパリ滞在日記

×月×日

大学でエマニュエル・トッドの家族人類学について講義したさい、トッドの理論のわかりやすい入門書があればいいなと思い、自分で簡単なものを書いたが、トッド翻訳の第一人者・石崎晴己の『エマニュエル・トッドの冒険』(藤原書店 四四〇〇円+税)は「入門書を超える入門書」として強く推薦したい本である。では、「入門書を超える入門書」と断言できる所以はどこにあるのか?

それは、著者が「トッドⅠ」と呼ぶ前期理論体系と「トッドⅡ」と呼ぶ後期理論体系の「関係」を独自に考察し、その進化の内在的理由を明確にしたところにある。

ちなみに「トッドⅠ」とは一九八三年刊の『第三惑星』においてトッドが確立した家族の四分類を中心にした次のような理論である。①家族システムには、結婚した子供(多くは男子)が親夫婦と同居するか別居するか、および相続において兄弟は平等か不平等かという二つの変数を掛け合わせた四分類(絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、共同体家族)が存在する。②その四分類の家族は地球上に「偶然」に分布している。③四分類の家族システムと地域のイデオロギーには密接な関係がある。

ところで、この「トッドⅠ」の基礎を成すのは共時態という考え方で、「基本的に各地域の家族システムの安定性を前提として設定し、その安定した不動の土台の上に、近代における宗教とイデオロギーが展開し変遷する、という構造になっている」。つまり家族システムはそれが出揃った西暦一五〇〇年以降の五百年は基本的に無変化の安定したものとして議論が進められているのである。

いっぽう、二〇一一年に原書が刊行された『家族システムの起源』においてトッドは理論体系を共時態から通時態へと大転換させたが、著者が「トッドⅡ」と呼ぶこの体系は家族システムは時間軸において発生・変動・伝播するという立場に立ち、その発生・変動・伝播の様態は空間軸(地理的分布)から説明可能と見なす。

この大転換のきっかけとなったのはトッドが『第三惑星』をリセの同級生だった中国言語学の大家ローラン・サガールに献じて批判を仰いだところ、サガールから、家族システムの分布は偶然だという結論は誤りであり、言語地理学の常識である「周縁地域の保守性原則」によれば、ユーラシア中央部に広がっている共同体家族が最も新しい進化形態であり、それが「ある地点から発生して、次第に周囲に伝播した可能性」が強いと指摘されたことにある。トッドはこのサガールの批判を受け入れ、理論の修正・転換を図ったが、本書のオリジナリティは、この修正・転換が一挙になされたのではなく、トッドが二十年近い年月をかけて世界の家族システムを再点検する過程で徐々になされていったことを跡付けた点だろう。

つまり、トッドはサガールの指摘を受けた後しばらくは革新である共同体家族がユーラシアの一点から周縁へと拡大したとする「単一起源仮説」を採用していたが、研究を進めるうちにそれを放棄し、共同体家族の代わりに「父系変動」という概念を提起し、しかも、その「父系変動」の起点は単数ではなく複数あり、それが同心円的に拡大して周縁部の未分化ないしは双方性の核家族に接近する過程で、対抗模倣としての「母系反動」をもたらしたという考え方にシフトしていったのだ。

「要するに、核家族の周縁性ならびに保守性を証明するために、周縁地域の保守性原則(PCZP)が引き合いに出され、これ以降、叙述ないし推論は、核家族と父系革新との間を行き来するようにして進行して行」くことになるが、その基本的シークエンスモデルは「双方的原初形態↑父系変動という革新↑その伝播・拡大↑時に母系反動」ということになるのだ。

トッドの理論は決して難解ではないが、記述はかなり不親切で、読みやすいとはいえない。トッドに興味をもたれた読者はまず本書を一読してから取り掛かるのがベストだろう。世界で唯一、トッドをほぼ完璧に理解したのは日本だけであることを示す優れたガイドブックである。

エマニュエル・トッドの冒険 / 石崎 晴己
エマニュエル・トッドの冒険
  • 著者:石崎 晴己
  • 出版社:藤原書店
  • 装丁:単行本(616ページ)
  • 発売日:2022-11-29
  • ISBN-10:4865783644
  • ISBN-13:978-4865783643
内容紹介:
ソ連崩壊、アメリカ衰退等を予言したトッド。その日本紹介の第一人者が描く全貌。
家族人類学・歴史人口学の研究成果から、現代世界の問題を抉り続けるトッド。主要著作『新ヨーロッパ大全』『帝国以後』『家族システムの起源』等を読み解き、波乱に満ちた彼の挑戦と冒険の全貌を描く力作。最新作『われわれは今どこにいるのか?』の詳細な紹介も収録。

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×月×日

ルイ・アラゴンのシュールレアリスム小説に『パリの農夫』というのがある。これは別にパリに上った農夫の話ではない。タイトルは、パリの本質は村人全員が顔見知りの巨大な村であり、パリジャンはこの巨大村から一歩も出ることなしに人生を満喫している農夫であるという意味で付けられたものだ。さらにいうならば、パリというこの村は、パリジャンばかりではなく訪れた外国人をも「ここに住んだら、もうほかには住まなくてもいい」と思わせる魅力があるのだ。

水原紫苑『巴里うたものがたり』(春陽堂書店 一九〇〇円+税)は両親と恋人に先立たれ、最愛のペットも亡くした六十代の歌人が、コロナ禍にもかかわらず三十年ぶりでパリを訪れ、短歌をつくりながら、日々の生活を書き留めた八十日間のパリ滞在日記であるが、パリ好き、とくに左岸好きにとっては深く共感できる一冊である。

まず驚くのは、著者の勉強好き。ソルボンヌの語学文明講座に登録して発音矯正や文法やディスカッションの授業を受けるのはフランス語学習の延長といえるが、その合間を縫って、オンラインで日本人向けの古代ギリシャ語講座(なんとホメロスの『オデュッセイア』)やロシア語講座、それにアンスティテュ・フランセの美術史講座を受講し続けるのである。どうやら、勉強するということ自体が好きなようだ。

もちろん、滞在の本命であるオペラ座、コメディ・フランセーズ、その他の劇場などでの観劇や、美術館巡り、映画館通い、教会見学を日本の友人たちとメールのやりとりのかたわら毎日行う。また、ジェラール・フィリップ生誕祭りを巡ってツイッターで相互フォロワーとなったフランス人の友人たちと落ち合ったり、その仲間の一人がいるリヨンに出掛けたりする。

しかし、日課の中心は、カルティエ・ラタンのホテルと近くのカフェ「コスモ」への行き来である。なぜならパリ滞在二週間にしてこの二つの場所の人々が「パリの家族」となってしまったからだ。

ホテルに帰ってからいつものカフェに行くと、今日は、みんな笑顔で『元気?』と迎えてくれる。(中略)ここは特に美味しいわけでもなく、ありふれた街のカフェだが、異国で自分を覚えてくれる人や場所があるのはうれしい。

結局、当初予定のホーム・ステイをキャンセルして、同じホテルに滞在し続けることにする。「ホテル・カルチエラタン、ここが私のパリの家だ」。やがて、パリに部屋を持ちたいと考えるようになり、不動産屋に当たってみる。パリは高いが「パリに定住したい」という思いは日々強くなる。

今日は節約するつもりでスーパーに入り、サンドウィッチとレモン水と葡萄とお水を買って、メトロで帰る。ああ、ここに住みたい。

夢よりもうつつまぶしく夏の日を送るサン・ミッシェルの夕顏

日本にいる時、灼けつくように孤独だったのが、今は微塵も感じられないのはなぜだろう。パリの旅のかりそめの魔術にかかっているだけだろうか

最後に、著者はサン・ジェルマン・デプレのステュディオ(ワン・ルーム)を買おうか買うまいか迷う。

二十代で移住に踏みきれなかったパリ、それからずっと眠っていた火種のようなパリ。パリは燃えているか。

たまきはるいのちの螺旋われを呼ぶ巴里の螺旋階段その朱(あけ)

パリの日々は移動祝祭日なのだ!



【関連オンラインイベント情報】2023/03/25 (土) 19:30 - 21:00 水原 紫苑 × 鹿島 茂、水原 紫苑『巴里うたものがたり』(春陽堂書店)を読む

書評アーカイブサイト・ALL REVIEWSのファンクラブ「ALL REVIEWS 友の会」の特典対談番組「月刊ALL REVIEWS」、ノンフィクション第51回はゲストに歌人・水原 紫苑さんをお迎えし、水原 紫苑『巴里うたものがたり』(春陽堂書店)を読み解きます。
メインパーソナリティーは鹿島茂さん。

https://peatix.com/event/3531293/view

巴里うたものがたり / 水原紫苑
巴里うたものがたり
  • 著者:水原紫苑
  • 出版社:春陽堂書店
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:2023-01-27
  • ISBN-10:4394980054
  • ISBN-13:978-4394980056
内容紹介:
パリで、好きなことをする
歌人・水原紫苑が長年の夢だった旅へ。
オペラ座や美術館、ジェラール・フィリップゆかりの地や、
大好きなカテドラル巡り、カフェ通い、ソルボンヌ大学文明講座への留学。
帰りたくない日々を写真と短歌で綴る80日の旅日記エッセイ。新作短歌119首!

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