対談・鼎談

別技 篤彦『戦争の教え方―世界の教科書にみる』(朝日新聞社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2023/08/06
戦争の教え方―世界の教科書にみる / 別技 篤彦
戦争の教え方―世界の教科書にみる
  • 著者:別技 篤彦
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:文庫(315ページ)
  • 発売日:1997-06-01
  • ISBN-10:402261207X
  • ISBN-13:978-4022612076
内容紹介:
日本の教科書について論じるために必要な、世界各国の教科書の戦争記述を具体的に調べて論じた貴重な報告。

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木村 長い間、世界の教科書の調査に従事してきた別技(べつき)篤彦さんが、諸外国と日本の教科書の違いを、戦争の教え方という面から明らかにしたのが、この本です。
先進諸国では、学習者の思考能力を発展させる興味深い内容の教科書ができているのに、日本はずっと後進状態にありまして――

日本の社会科教科書では、戦争はいけないもの、人間はたがいに仲よく暮さなければならないなどの抽象的な数行の記述で簡単にすませているが、日本以外ではそうとは限らない。「戦争」という章を設けたり、戦争は人間の愚行であると明確にきめつけたり、人間はなぜ相手を殺すのかという人類学的な原点にまで遡ったり、初めて戦場へかり出されたときの若者たちの心理、また人間の武器生産への執念から遂には核兵器開発、大量殺戮をめざす狂気のような軍備拡張、またそれらに反発する人びとの動きなどを具体的な例で生き生きと描いているのである。

たとえばアメリカの教科書には、過去五百年間に、三百回戦争が起ったとか、一四八〇年以降、十五回の大きな国際戦争があったと記してあり、イギリスの教科書は第二次大戦について、この戦争で失われた生命は、ソ連七百五十万人、ドイツ二百八十五万人、中国二百二十万人、日本人百五十万人……、人口と対比すると二十二人のロシア人のうち一人、二十五人のドイツ人のうち一人、四十六人の日本人のうち一人が殺された、といったぐあいに書いています。

オーストラリアの教科書には、日本の特攻隊員の『聞け、わだつみの声』を引用して、〈われわれもまた日本人も、同じように戦争をいやがっていたことを忘れてはならない。かれらも愛、喜び、恐れ、絶望などの個人的感情に富むひろい人間家族の一員なのであった。どうしたらわれわれはこのような仲間の人間たちに開かれた心を以って接近できるであろうか〉という設問をしています。
また、なぜ人間は戦争をするかということについて、「人間は生来殺し屋の素質をもって地上に出現してきたのだ」という人類学者の説の紹介があるとともに、他面、コリン・マクドゥガルの作品から、カナダ軍が二人のイタリア兵を捕まえたとき、大佐と中尉のあいだで殺すべきかどうかについて論争が起った場面を叙述して、殺しあいを好まぬ人たちもいるということを紹介しています。

インドの教科書を見ますと、人類が誕生して百万年になるが、文明が興ってからわずか二万年にすぎない。私たちは二歳未満の幼児でまだ知恵の使い方を十分に知らないのである。今後戦争を防ぐには、ただ自己の心の変革によってのみ善へ向って前進できると諄々と説明してあって、インド哲学的な寛容の精神にあふれています。

原爆投下の模様についても、信じがたいほどリアルな叙述の教科書があります。

西ドイツの教科書には〈焦げた髪は焼けちぢれ、衣服はボロくずのようになり、露出している皮膚の部分はすべて火傷して〉いる被爆者の様子を日本人医師の報告に基いて描いていますし、アメリカの教科書には、広島の市民の個人的体験をとりあげ、〈青い澄んだ空に浮んだ三個のパラシュートを人々は眺めていた。「なんだろう? 飛行機が落としていったのか?」その瞬間、かれらの頭上数百フィートのところで爆弾が炸裂した〉という場面から始まって、何ページにもわたって、被爆の様子が出てきます。

私が川のほうへ歩いていくと、そこには火傷を水で冷やそうとしているたくさんの人がいましたが、その多くは火傷の程度がひどく、まるで肉塊を見るようでした。そのとき雨がひどく降ってきました。私はもう歩くことも横になることも何もできませんでした。しかし、火ぶくれになったところを何とかして水で冷やそうとしていたのです。雨はかなりひどく降りました。

さらに原爆と、これから起るかもしれない二十メガトンの水素爆弾とを、オーストラリアの教科書では次のように比較しています。

ピンをとってノートに直角に立ててみることにしよう。ピンの長さは約二センチで、これが第二次大戦での通常兵器の最も破壊的なものの高さを示すこととする。そうすると広島型の原子爆弾は高さ約二十メートルとなる。これはほぼ五階建のビルと同じ高さである。同じスケールを利用すると、標準的な二十メガトンの水素爆弾は実に高さ約二十キロメートルで空中にそびえることになる! これはエベレスト山の約二倍と等しい!

諸外国の教科書では、こういう具体的な叙述と、設問を通して、生徒が戦争を自分自身で考えなおしてみるようにすすめています。ところが日本の教科書にはそういう態度がまったく見られない。教科書に関する限り日本は後進国だと別技さんはいうのですが、大変重要な指摘を含んだ本だと思いました。

山崎 率直にいって、この本を大変つらい思いで読みました。平和を祈願し、その実現のために教育の可能性を探っている著者の誠実さはよく分ります。私自身も平和を願う点では全く同じ立場だと思います。私は、軽率な憲法改変には反対だし、核武装はもちろんのこと、靖国神社の国家護持にも賛成ではない人間です。しかし、そういう人間がこの本を読んで、どういう見通しが与えられたか。結局、あまり希望がもてないということが分っただけです。なぜ戦争は起るのかということに対する答えを、結局どこの国の教科書も教えてはいません。戦争の真の原因を人類は知らないということが分っただけです。

のみならず、各国の教科書を見ましても、どの国もナショナリズムの枠を超えていない。その点においては日本の教科書ばかりを笑ってはいられない。例えばイギリスの教科書では、日本やドイツの悪口は書いてあるけれど、自分たちがやった残酷なボーア戦争について嘘八百が書いてある。

丸谷 阿片戦争のことも書いてないらしいね。

山崎 フランスの教科書では、インドシナ戦争、アルジェリア戦争を教えないし、パリ・コミューンさえタブーになっている。アルジェリア戦争については、その痕跡を社会的に抹殺することを目的にした法案を採択したという。私はこういうことは知りませんでしたが、読むと目の前が暗くなります。

大概想像のつくところですが、中国ではいまだに、ベトナムに対する懲罰戦争を行うことは正義だと教えていますし、ソ連の教科書では、帝政ロシア時代の戦争さえ擁護されている。――一体、どこの国に理想的な教科書があり得るだろうか。人間は戦争について子供に何を教え得るのか、私は暗い見通しをこの本から受けました。

木村 そういう、各国の利害が教科書に色濃く反映されている事情も、この本にはっきりと指摘されていますね。

丸谷 ぼくは社会科の教科書はまともに読んだことはないんですが、国語の教科書にかけてはかなりのオーソリティなんです。(笑)
約十年の間隔を置いて、小学校、中学校の全教科書を二へん読みました。そのとき受けた感じと、別技さんが社会科の教科書を詳しくお読みになって受けた感じがじつによく似ている。一口でいえば、面白くない教科書を作ろうと、寄ってたかって努力しているということです。(笑)

別技さんの本を私なりに要約して、どうすれば面白くない教科書ができるか、五カ条あげますと、第一に具体性の欠如、第二に明確な主張の欠如、第三に趣向、工夫の全くない書き方、第四に生気のない文体、第五に大問題の回避、ということです。(笑)

ここで戦争の問題になるわけですが、私が物心ついて最初の事件は満洲事変の号外でした。戦争って何だかひどく厭なものだ。厭なものがぼくの人生に入ってきちゃったらしい、と五つか六つの子供が思ったんですね。それ以来、なぜ人間は戦争なんかするのかということが、最大の謎になりました。大きくなるにつれ、なぜ貧富の差が生ずるのかとか、男女の仲の問題とか、根本的な疑問はいろいろ出てきましたが、一番の問題はやはり、人間はなぜ殺し合うのか、ということだったんです。私が教わった中学校の「公民」では、一言もそういうことは触れてありませんでした。どうやらいまの社会科の教科書も触れてないらしい。ところが西洋の教科書は、堂々とあつかっているらしいんですね。そのことにぼくは敬意を表したいと思います。

なぜ戦争が起るか。これはおそらく永遠に答えの出ない問題だと思うんですよ。答えが出ないのに触れるってことは、しかしそれが考えるに値する大問題だと公的に認識してるわけですね。みんなで考えてみよう、と少年少女を激励しているわけです。つまり生涯の課題を差出す。そういう態度が西洋にあって、日本の教科書にない。その落差が日本の現代の教科書問題の根本なんじゃないかと思うんです。

木村 その通りですね。イギリスが第一次大戦で兵士募集したときの、愛国心を鼓吹するポスターがアメリカの教科書に紹介されています。

すでに他の人たちの登録は終った。諸君の友人もこれに応じた。君はどうなのか。躊躇することは君の良心にそむくことになるのだ。すみやかにもよりの登録所に出頭せよ。諸君は男子の義務を完遂した人間として待遇されよう。諸君の給与支給も即座に開始される。第百五十六大隊の制服は準備されている。諸君よ、来れ。そしてドイツへの無料の旅行に参加せよ。(笑)

こういう生の材料をどんどん出して、生徒にともかくも考えさせる。そういう要素が日本の教科書にはないんですね。しかもその無味乾燥な教科書を、日本では金科玉条のようにして一〇〇%採択している。ヨーロッパでは、副読本や視聴覚教材などの利用によって、本来の教科書の使用率は各国で低下しており、西ドイツでは五十%台になっているということです。

山崎 日本の教科書が無味乾燥だということと、採択率が高いということとは車の両輪のようなものなんですね。採択率の高い教科書をつくろうと考えますと、結局は、大問題を避け、明解な主張をせず、生気のない文章で、具体的な事実を避けて書かざるをえない。

丸谷 ………。(笑)

山崎 おそらく世界のどんな国でも、これだけの採択率を条件にして教科書を書けば、そうならざるをえないだろう。つまり、その国が独裁国でない限り、明解な主張をもち、生気ある文章で国民を刺激することは、政府の権限にないことです。

そこで、私は爆弾発言をしたいのですけれども、現在の日本のように非常に文明度の高い国において、世界の最先端を進むつもりならば、中等公教育――私学も含め、文部省の何らかの監督下にある中等教育――において、歴史の教育を廃止すべきだと思います。いや歴史のみならず、社会科のかなりの部分、国語における文学教育、その他、芸術教育等々を、学校教育から社会教育へ放出すべきであると考えます。

そうすれば、戦争についても突っこんだ、したがって極めて偏った議論もできます。戦争は資本主義の起すものだと叫ぶ人があってもいいし、社会主義のせいだという人があってもいい。人類の運命だという人があっても差し支えない。事実、現在の日本の言論、出版物を見れば分るとおり、あらゆる議論が行われ、相互批判がされているわけで、子供たちも常時それに触れている。その生活の中で、どうして一定の時間、教室というところへ押しこめ、無味乾燥な教育をする必要があるだろうか。

教育は公けに行う以上、どうしても一つの権力的な体制と結びつかざるをえません。この場合の権力とは国家権力のことだけではなく、日教組の権力も、個々の教師の権力も含みます。生徒は試験をされる。そういうところで、一体どういう多元的価値を教えることができるか。

たしかに丸谷さんがおっしゃったように、大人でさえ答えの出ていない問題について、子供に考えさせようというのは大賛成なんです。本当に必要なことです。しかし、それは公教育の教室にはなじまない。私もかつて受けたのですが、戦後の中等教育では、社会科だけではなく、理科や数学まで「考えてみよう」という問題があった。(笑)
ところが答えはちゃんとあるので、教師が握っている。

木村 あれは欺瞞ですね。(笑)

山崎 だから生徒は教師の顔色を読むようになります。甚しいときは、その教師が日教組の主流派であるか、反主流派であるかまで考えて、どちらをいえば褒められるかを考える。そういう世界で「考えてみよう」というのは、子供に妙な猜疑心を植えつけます。ですから考えさせるのは家庭で、あるいは一般社会で考えさせればいいのであって、そういう場所はいまの日本には沢山あります。開発すればもっとふえます。

第一、試験のある場所で面白いことをやろうというのは、そもそも無理で、たとえ授業がどんなに面白くても、子供はやがて、これは試験をするためのプロセスとして、自分たちは操られているのだな、と感じます。もっとも一切試験もしないし、単位も関係ないという歴史教育を行うというなら別問題です。しかし、それならば何も沢山の税金をかけて、公教育の枠内に置いておく必要はないんです。
教科書の問題は根本的に抉っていけば、教育そのものの非国家化、非制度化に帰着すると思うんです。

木村 山崎さんの意見には半分賛成で、半分反対です。理科で「考えてみよう」というのは、確かに巧妙な詐術でして、結論は決まっています。どうやってその結論に生徒をうまく誘導していくかという教育技術の問題で、本当に生徒に考えさせることにはならない。

ところが歴史は全然性格が違います。歴史には本来、結論、決まった答えというものはありません、過去は人によって丸にも三角にも四角にも見えます。それはその人なりの人生観、世界観が反映されるからです。歴史学は時間を媒介とした人間の学ですから、人間を知らなければできないところがあります。つまり年をとらないと分らないので、十代の子供に歴史が分るなどということはありえない。

山崎 大賛成!!

木村 したがって、私は歴史を学校で試験することには、本当をいうと反対です。入試科目からは除いたほうがいい。しかし、にもかかわらず教室で教えなければいけないと思っています。本来、正しい歴史の教科書などありえません。歴史叙述はすべて副読本としての扱いしか出来ないものなんですね。独特の史観、人生観、世界観がそこに反映されてこそ読むに値するからです。これを欠いた、歴史年表のような、履歴書みたいなものでは、誰も読む気がしません。そこで歴史の教師は自分の信念に基いて、過去から現代までを真剣に整理してみる。そして、さまざまな人間の生き方、物の考え方、生きる知恵を自分に生徒にぶつけ、教えねばならない。そうする義務があると思うんです。生徒は生徒なりに時代の空気をすって生きているわけですから、先生の考えに全面的になじむことはありえない。しかしあの教師があれほど真剣に言うからには何か意味があるに違いないと自分なりに考えます。これは、ただそのへんで売っている本を買ってきて読むのとは違い、教室だからこそ意味があります。公教育としてやってこそ強制がかかり、生徒の心に負担が生じる。その負担に駆られて生徒は自問自答を始めるんですね。

丸谷 その場合、先生の質が大事だと思うんですよ。木村さんが高校の先生であって、試験もなければ、教科書も副読本にすぎないという授業をなされば理想的だけれど、それはいまの日本では大変なぜいたくでしょう。

木村 そうでしょうか……。

山崎 上級中等教育が日本ほど普及している国はないんですね。それを充すだけの教師を全国の普通の若者から集めて、そのみんなに、木村さんほどの学識は問わないまでも……。

木村 その「木村さん……」はやめて下さいよ。(笑)

山崎 情熱と思索力を要求することはほとんど不可能。不可能だから、ああいう平均的な教科書で方針を決めて、しかも教師用のガイドブックで黒板の書き方まで教えているんです。そうしなければ生徒の前に立てない教師が大勢いる。
その上で、さて試験をしないのは結構ですが、それでは生徒は、教師を選ぶ権利があるのか。隣の学校の先生が面白いからといって、そっちに行くことができるのか。これは無理なんですね。 それならば、歴史やその他の人文科学を公教育という枠におさめる必要がどうしてあるのか。テレビではユニークで魅力的な歴史の講義をしている東京大学の某先生もいらっしゃる。町の市民講座は大繁盛です。いまは公教育があまりにも大きいので、そういうところへ在学中の生徒はこないし、あまり本も読みませんが、公教育の拘束をへらせば、自由な選択が行われ、もっと積極的な学習者がふえるでしょう。

木村 私が昔、中学で習ったときのことを考えてみますと、印象に残る先生は、思想が右とか左とかの問題ではなかったですね。コツコツ勉強していて、生徒に真剣にぶつかっていく先生の姿と言葉は、いつまでも心に喰いこんでいます。ところがいまは教科書をいかにうまく教え、受験に対処するかということに先生方が腐心していらっしゃる。生徒の心には先生の顔も名も残らない。これは問題だと思うのです。
歴史というのは、人間を考えるのに一番いい科目だから、入試科目から除いても、授業だけはちゃんとやるべきだと思います。

山崎 現在の歴史教育から試験をはずす、特に入試科目としてはずすということならば、私は木村さんのご意見に妥協します。しかし結果として、私の意見と全く同じことが起りますよ。

木村 うーん、その点は難しい。(笑)

丸谷 そう。それ以上は省きましょう。(笑)
ところで歴史の教え方の問題なんですが、その根本には、我々日本人が馴れ親しんでいる歴史観が尾をひいているんじゃないかと思うんです。それは「美談としての歴史」なんですね。私は小学生のとき、北垣恭次郎の「国史美談」「続・国史美談」を読んで、これは小学校の歴史の教科書を極端に詳しくしたものだなあと思いました。あとになって考えれば平泉澄の日本史は「国史美談」的なもので、その源泉は「大日本史」や「日本外史」にあるわけですね。つまりイデオロギー的な「美談としての歴史」。この傾向は反対の立場にもありまして、スパルタクスの反乱を情熱的に礼賛したり、百姓一揆をむやみと大事にしたりする、これも一種の「美談としての歴史」だと思います。これは、学校で教えるのに向いていませんね。

しかし、イデオロギー的な「美談としての歴史」のほかに、人生論的な「美談としての歴史」があって、これは普通の読者にとっては、一概に退けるべきものではないと思う。生きていくうえで、規範としての過去というのが時々必要なことがありまして、「ここは昼あんどんの態度でいこう」とか「エルバ島を脱出する気持になろう」と自分で自分を励ます。これはそう悪いことではないと思うんです。むろん、それが極端に走れば滑稽だし、学問だと主張すると愚劣なことになりがちです。第一、あまり事実と違っていれば、美談性すら価値を失うことになりかねない。そして厄介なのは、人生論的な「美談としての歴史」のなかに、イデオロギー的な「美談としての歴史」がひょいともぐりこむことがしょっちゅうあるということなんです。日本人のように、マルクシズムを、賛否いずれの方向であれ、ひどく気にして来た国民の場合、特にその傾向が強くなる。
この「美談としての歴史」の裏返しとして「醜聞としての歴史」ってのがあるわけです。

山崎 アッハッハ、なるほど。

丸谷 その極端なのが、スエトニウスの「十二人のカエサルたち」とか「三王外記」(将軍家綱などがどんなに淫乱であったかを書いた漢文の本で、太宰春台の著と言われる)とかですね。これは「美談としての歴史」の嘘を見抜く眼力を育てるという意味でプラスの面もあるんです。しかし、これを子供の頃にあまり教えると、生きる気力を失わせる恐れがあります。
それともう一つ。美談としての歴史、醜聞としての歴史、どちらも遠い昔の話ならば、軽く感動したり、ニヤニヤしたり、あまり問題はないんです。ところがこれが同時代史になると、むやみに人心を騒がして、何だか傍迷惑なことになりがちである。そこが問題なんじゃないですか。

木村 丸谷さんは非常にいいことをおっしゃって下さった。いまの歴史の教科書に一番欠けているのは、現実感覚なんですね。いま人びとはどうやって生きたらいいか、真剣に模索しています。そのため先人の知恵と体験を知りたいという欲求が強いわけで、だからこそ、信長や家康の話が小説になりテレビ化されるわけです。

その意味で、私は、まず地方史を教えるべきだと思います。地方の自然は小学校の地理で教えます。しかし地方の歴史は教えなくていいことになっている。しかし自分の土地に生きた人々の知恵や体験を知り、郷土への誇りと自信をもつ、それがなくて、どうして歴史に対する共感がでてくるんでしょう。小学校では地方史教育を義務づけるべきです。その教科書は、それこそ地方の先生方が、地元の史跡とか豊富な材料をもとに工夫をこらしてつくればいいわけです。

高校の世界史に至っては、日本との関わりなしに書かれているのが最大の欠陥です。アメリカについてはアメリカでの史観で、フランスについては、フランスにおける主だった史観で書かれている。それぞれ国ごとにバラバラの史観が一冊の教科書のなかに同時に出てきて、その最大公約数的なものを記述しようとするものですから、無味乾燥になってしまう。いまの高校世界史の教科書は、世界に生きる現代日本という視点が欠けていますから、各国の民族性や文化を知る手だてにもならなければ、観光案内にさえならない。何の役にもたたない。

丸谷 木村さんは世界史の教科書の編纂に関係してないんですか。

木村 多少関係はしていますけど、なぜか、この鼎談に出ると本音が出てしまう。(笑)

丸谷 それはいいや。(笑)

木村 明日にむかってどう生きたらいいのかという知恵を得るために、過去の史実が再構成されるべきなんですね。よく高校世界史の教科書にはラテン語のマグナ・カルタの複写が載っていますけれども、意味ありませんね。印刷が不鮮明だし……いや、鮮明だって内容は分りません。(笑)
そんなものを載せるより、事態をよく理解させるためのイラストを描くとか、あるいは、優れた歴史小説の内容を紹介するとかしたほうがいい。この本にも、オーウェルの小説の例が載っていますね。

日本では、小説はフィクションで歴史的事実ではないということで、歴史の教科書に使うことは許されていないわけですね。しかし小説のほうが時代の本質、歴史的真実をはるかに良くつかんでいるという場合があります。教科書の叙述をもう少し自由にしてほしいと思いますね。

山崎 木村さんのおっしゃることには全面的に賛成だけど、結論が逆になるんだなあ。
つまり、人格的な共感によって人を育てるということと、社会的な制度とは根本的に矛盾するものでしょう。日本のいまの公教育は、あらゆる意見を民主主義的に尊重することを極端に制度化したわけで、そこで、たとえ偏っていてもいいから、一つの信念を述べるってこととは、絶対に折りあわないんです。

教科書にしても、別技さんが現状を憂えておられる気持はよく分りますけれど、たとえば、アメリカでは未だに進化論を教えてはいけない郡がある。そういう国での教科書のあり方と、日本のようにこれだけ平均化されてしまった国の教科書を同日に論じても、ちょっとしようがない。

丸谷 しかし日本の教科書はこれだけ退屈で無味乾燥で、官僚の答弁のような、あるいは大新聞の社説のような文体で書かれていて、そういう教科書を、中学で三年間、高校で三年間、読ませているわけでしょう。この弊害は恐るべきものだと思いますね。何という生気のない文章なんだろうと、あきれてしまう。

日本に原爆が落され、兵隊ではない大勢の日本人が死んだ。そのことを、おれはこの事件に何の関心もないというような口調で書ける人間が日本の教科書の編纂者で、しかもそれを文部省が奨励している。ぼくはどう考えてもおかしいと思う。うんと好意的に見れば、たぶんこういう教科書を作る人たちは、原爆のことを詳しく書いて話がなまなましくなると、アメリカに対する敵愾心をかきたてることになってまずいと思っているんでしょう。 しかし、広島と長崎の悲惨事についてきちんと記した上で、だからと言ってアメリカに報復しようなどと考えるのは間違っていると書けば、それでいいじゃありませんか。それに、原水爆の出現というのは人類全体の歴史にとって非常に大きな事件ですから、こんなふうに素気なくあつかうのは、教科書の執筆者に正常な歴史感覚がないってことになりますね。文部大臣と文部次官は大至急、別技さんの本を読むべきだな。

木村 この本では原爆のところがやはり圧巻でしたね。アメリカの教科書と日本の教科書を比較すると、日本の高校生よりもアメリカの高校生のほうが、広島の惨状について知る機会を与えられているんじゃないかとさえ思いました。日本の場合は原爆はいけない、平和が大切だとお説教するばかりでしょう。何にもいってないのと同じですよ。

それにしてもこの本を読むと、近現代史上もっとも闘争的・攻撃的かつ自己防衛的な、人生を戦いにおいて生きる欧米人、特に英米人と、争いを好まず和に生きようとする日本人との違いが、よく分ります。その点この本は、戦争という切り口で鮮かに示してみせた、優れた比較文化論、比較社会論となっています。

戦争の教え方―世界の教科書にみる / 別技 篤彦
戦争の教え方―世界の教科書にみる
  • 著者:別技 篤彦
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:文庫(315ページ)
  • 発売日:1997-06-01
  • ISBN-10:402261207X
  • ISBN-13:978-4022612076
内容紹介:
日本の教科書について論じるために必要な、世界各国の教科書の戦争記述を具体的に調べて論じた貴重な報告。

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年10月1日

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