書評

『浮く女 沈む男』(朝日新聞社)

  • 2020/06/11
浮く女 沈む男 / 島田 雅彦
浮く女 沈む男
  • 著者:島田 雅彦
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:文庫(389ページ)
  • 発売日:1999-02-01
  • ISBN-10:4022641851
  • ISBN-13:978-4022641854
内容紹介:
メランコリーな気質を持つ少壮の学者・山名ミツルが、妻を捨て家を出る。後にはシルクロードの西から来たかのような美女の写真が残されていた。夫を追い西へ向う妻と弟イタル。やがて二人の前に現れてミツルは、船旅へ出ると告げる。ミツルと謎の美女を乗せた高級客船・弥勒丸は、神戸から東アジア・クルーズに出発する。優雅なはずの船旅だったが、ブルース・リーと名乗る男に船が洋上で買収され、運命が一変する。海洋冒険小説の新しい展開。

海より訪れる唯物論的な革命

私はこの小説を都合三度、読んだ。一回目は 「週刊朝日」での連載中、二回目は単行本化されたとき、そして三回目が文庫化される今回である。この作品について著者は自ら、「不義の子ではないが『できちゃった」という感じである」(文庫版「あとがき」)と評しているが、読者である私も連載が終わった時、似たような感想を抱いた。ところが、今度読み直してみると、その子はしっかり成長していたのである。この五年間、それまでの日本のアイデンティティをうち砕く事件・災害が相次ぐうち、この小説の題材は少しも異様ではなくなっていたのだ。

物語の軸は二つある。一つは表題にある「浮く女」と「沈む男」の関係だ。陰鬱な性格の学者である山名ミツルは、常に自意識に囚われており、自分の言動を意識しては自己批判を繰り返すという迷宮から逃れられない。だが、自我が溶けてしまったような夢遊病の京都美女、浦島あおいと知り合い、その茫洋とした母なるものに包まれて初めて癒されたと感じてからは、あおいの沼にはまり込んでいく。そのまま彼女と一心同体となり、女となりかわって人生をやり直すとの決意のもと、妻の美鈴を捨て、二人して東アジアを周遊する豪華客船「弥勒丸」に乗り込む。だが、この船はただの客船ではなかった。

そこでいま一つの軸が登場する。旅の途中で弥勒丸は、中国系移民のブルース・リーなるマッチョないかがわしい人物に買収される。彼は革命を宣言すると、ならず者や山師や密入国を企む者たちを乗船させ、船内をたちまち無法地帯と変えてしまう。スノッブな客船が猥雑なスラムや市場へと変貌するこのくだりは、熱気と喧噪と饐えたようなにおいが漂ってきて、この小説で最も魅力的な場面である。この結果、日本の中産階級の客たちは、人質の地位に転落する。ミツルも例外ではなく、船倉に閉じこめられ、あおいをブルース・リーに奪われる。いまやミツルのアイデンティティそのものとなったあおいを取り戻すべく、彼はブルース・リーと対決するのだが、マザコン男のふやけた自我ではかなうべくもなく、一層の没落を強いられていく。

これは実は、今の日本が置かれている状況そのものだ(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1999年)。海上での革命の代わりに、国内でオウムや少年がテロを起こし始めた。中国からの密航者も「蛇頭」を始めとして日本国内に次々侵入しているばかりでなく、北朝鮮からの逃亡者・潜入者の影もちらついている。そして何よりも、アジア経済危機と国内の金融危機とにより、日本の地位が一気に没落し始めた。これらの現象は同じひとつの根を持っており、それがこの小説ではブルース・リーという人物の姿をとっている。つまり、日本及び世界資本主義から取り残されていた者たちの、破れかぷれの反撃である。

攻撃されているミツルは、日本を体現する。この小説では、「海と船は女で、陸は男」というセリフが何度か繰り返される。登場人物のほとんどが海に関する姓を持つ中で、ミツルだけが「山名」と陸の苗字を持つ。海に囲まれる睦とは、日本列島であり、女に守られる男でもある。普通に理性を持つ美鈴にではなく、直感で生きるというあおいに「女」を見るあたりは、彼が一部の構造人類学者にも似た植民地主義者であることを示している。彼は自他をあやふやにする母に守られた中で内省を繰り広げ、自意識の迷宮を組み立てる。だが、理解不能なよそ者たちがせめぎ合う船上=戦場では、自我の迷宮など成り立たない。そもそも神経症的な自意識自体が、守られた自閉と退屈の産物だったからだ。ミツルは文字通り裸にされさらし者にされ、決断を迫られる。そこで彼の選ぶ方向は、あらゆる運命に逆らわず、マゾヒスティックに没落することだった。それが「家畜人ヤプー」たる日本の運命であるというように。

対するブルース・リーは、「運命の女神は諦めを最も憎んでいる」と非難する。「世界は移民という階級によって統一される」とうそぶき、破壊に結びつく紛争の種をまいて回る。彼の革命は目的を持たない。つまりイデオロギーに基づかない唯物論的なものである。現実にアメリカと中国の覇権争いが起こっても、ブルース・リーはどちらにもくみしない。彼が目指すのは、そこから漏れた移民たちが個人のネットワークで築く「四次元の帝国」である。だが、ここで第一の軸がまた登場する。海に囲まれた船の中に住む男であるブルース・リーも、あおいによって次第に母に甘える子供として骨抜きにされていく。しかも、船を一歩降りれば誰かの手下にしか過ぎないこともほのめかされる。こうして世界は、あおい的なものを母なる女性と見なす勢力に覆われようとする。

読み手を居心地の悪い思いにさせる小説であるが、その居心地の悪さこそが、『文明の衝突』といった安全な危機感とはまるで異なる、まっとうな不気味さなのだ。
浮く女 沈む男 / 島田 雅彦
浮く女 沈む男
  • 著者:島田 雅彦
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:文庫(389ページ)
  • 発売日:1999-02-01
  • ISBN-10:4022641851
  • ISBN-13:978-4022641854
内容紹介:
メランコリーな気質を持つ少壮の学者・山名ミツルが、妻を捨て家を出る。後にはシルクロードの西から来たかのような美女の写真が残されていた。夫を追い西へ向う妻と弟イタル。やがて二人の前に現れてミツルは、船旅へ出ると告げる。ミツルと謎の美女を乗せた高級客船・弥勒丸は、神戸から東アジア・クルーズに出発する。優雅なはずの船旅だったが、ブルース・リーと名乗る男に船が洋上で買収され、運命が一変する。海洋冒険小説の新しい展開。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ

初出メディア

一冊の本

一冊の本 1999年3月号

関連記事
星野 智幸の書評/解説/選評
ページトップへ