解説

『生(いきる)―命四部作〈第3幕〉』(新潮社)

  • 2017/09/23
生―命四部作〈第3幕〉  / 柳 美里
生―命四部作〈第3幕〉
  • 著者:柳 美里
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(345ページ)
  • ISBN-10:4101229287
  • ISBN-13:978-4101229287

強い時間を持つ物語

この文章を書くためにあらためて『生』を読んだ。読むのは二度目、連載時を含めると三度目だった。時間をかけてじっくり読むつもりだった。ところが読み始めると途中でやめることができず最後までひといきに読んでしまった。

なんでそんなことになったのかというと、この『生』という小説がそのなかに強い時間を持っているからだと思う。

どんな小説でもその小説固有の時間を持っている。その小説の時間が強ければ、小説の時間は読者自身の人生の時間の流れに逆らって小説の時間に読者を引き込む。ぐいぐい引き込まれてあっというまに読んだ、なんつうのはこれである。感情移入して読んだというのもこれ。

逆に小説の時間が弱いと読んでいても、自分の人生の時間の様々のこと、後一時間したら外出しなければならんのだけれども、そのためには服を着替えて髭(ひげ)を剃(そ)らぬとあかぬなあ、とか、そろそろ換気扇を掃除せんとあかぬなあ、なんてことが頭に浮かんで書物の世界に入っていけなかったり、もっと端的に、つまらぬなあ。早く終わらぬかなあ、と思ったりするのである。

ただここでひとつ言えるのは、そうして強い時間を持っている小説が優れた小説で弱い時間しか持たぬ小説が劣った小説ということではなく、おそろしく退屈なのだけれども、よく読むととてつもなく重要なことが書いてある小説もあるし、ぐんぐん読むのだけれども読み終わった瞬間、すがすがしいくらいになにも残らない小説もある。

もっと言うと、強い・弱いというのはあくまでひとりびとりの対者の人生の時間に対して、強かったり弱かったりする訳で、ある人に対してきわめて強い時間をもって迫る小説がある人にとってはまるで弱かったりする場合もこれはある。

ただ間違いないのは、この『生』という小説が、私に対して非常に強い時間を持っていたということで、私は、ある日の午前中から午後にかけて、実はあったその他のやるべきことをすべて抛擲(ほうてき)して、この小説を読み耽(ふけ)ったのであった。

といった小説の時間がじゃあどのように成り立っているかというと、それは小説家の作為によって成り立っている。そんなものはあたりまえの話でだから作者という。そして一般に作者という者は読者に受けたい、すなわち小説の時間をより優位に立たせたいと思っているから、さまざまの工夫をして小説の時間を際(きわ)だたせようとするし、また作者にはそれが許されている。なぜなら作者には言葉を使って小説の時間を随意に操作する権利と義務が与えられているからである。

だったらよいではないか、問題ないではないか。与えられた、或いは手持ちの言葉でもって好きなように強い時間を拵えればよいではないか、というようなものであるが、しかし必ずしもそうともいかぬ問題もしかしあって、私は右に権利と義務と書いたが、まさしくそれはきわめて苦しい、劫罰(ごうばつ)のような義務でもあるからである。

というと、言葉を使って自由に時間を操作できるのがなぜ義務なのだ、別にええやんけ、おもろいやんけ、と思われる方があるかも知らんが、確かに作者が自分の人生の時間をどこかに棚上げして自由自在に時間を操作できれば或いはそうかも知れぬが因果なもので、作者の人生の時間は必ず小説の時間に影響を与え、また小説家の言葉に激しく抵抗するからである。二度と思い出したくない過酷で辛い体験やそれにともなう否定的な感情は、作者がそのことや、そのことそのものではなくともその感情に基づいた人間の時間を作品のなかに描きだそうとしたとき激しく抵抗して暴れだす。

よく小説家が、書くのが辛い、書けない、書くのが面倒くさい、と書いたり喋ったりしているが、多くは右(事務局注:上)の理由によるものだと思う。

しかし作者は書かなければならないので苦しみながらも言葉を使って暴れまわる自分自身の時間をねじ伏せて書く、すなわち小説の時間を操作するのであり、つまり書くことが権利であると同時に苦しい義務となるのである。

柳美里はしばしば、書くことが自分にとって救いであった、という意味のことを書いているが、実感のこもった言葉だと思う。

過酷な人生の時間をねじ伏せることができるのは言葉だけである。右のような闘いを経て言葉で時間をねじ伏せ、恐怖や憎悪にうちかった、恐怖や憎悪を言葉でできた別のものにできた、という実感を得た作者は多いと思う。次の瞬間、また新たな恐怖や憎悪が現れたとしても、である。

そういう意味で柳はこれまで書くことによって生きてきたのだろうし、生きている以上、書かずにいられなかったのだと思う。

しかしこの本を読んで戦慄するのは、小説の時間が現実の時間に敗北していく様がそのままダイレクトに綴られているからで、作者はどうやったらそんなおそろしいことに耐えられたのだろうかと思うからである。

三百頁に及ぶこの小説には、一カ月に満たない間に起こったことが書いてある。

一カ月の間に起こったことしか書かれていないと言えると思う。小説の時間が渋滞してなかなか流れない。

それはこの世にふたつとない特別な関係で結ばれた東由多加(ひがしゆたか)の時間が作者の言葉に示した抵抗であり、その時間が尽きた後も、東の存在しない世界の時間が猛然と作者の言葉に襲いかかった結果だと思った。

これまで柳の文章は華麗で装飾的であった。しかし本書ではそうした文章的な造りの部分が少なくなって圧倒的で濃密な時間だけが流れていくように思えた。それは小説の時間が現実の時間に敗北している、柳美里の文章が敗北しているからだと思う。

作者はときおり過去の東と生活した時間を現在の時間の間に挿入する。楽しげで親密な様子が描かれている。特権的な立場に立った作者は、時間の残酷、無常、のようなことを描くためにこういうことをしがちである。去年の桜、今年の桜。しかし柳はそういう常套的な操作のために過去の時間を挿入したのではなく、個人的な救いを求めて過去の時間を挿入したように私には思えた。しかしその祈りのような企(たくら)みは無残に失敗して、現在の時間の過酷、残酷があらわになるばかりなのである。

しかし作者は右にもいったようにそのような残酷を含んで言葉の敗北する時間そのものを書いておそろしく強い小説の時間を作りだすことに成功している。非文学的な薬品名や数値が出する。凄いことだと思う。怖ろしい作家だと思う。

東由多加は生前、「柳はおれの死を書くことによって作家として成長するだろう」と周囲に洩(も)らしていたという。まさしくその通りになった。

そしてこの作品のなかには濃密で強い時間を生きた東と柳と丈陽(たけはる)以外に、北村さん、大塚さん、泠子(れいこ)さん、志摩子(しまこ)さん、崔さん、佐藤医師、米田さんなどその周辺の人々が作品のなかで体温と肌触りを持った人物として生きており、また、強盗強姦(ごうかん)事件を取り調べる刑事の口調なども生々しく描かれていて、そこに柳美里という作家の底力のようなものを感じる。

人間はいずれ間違いなく死ぬものであり、人生の時間は唐突に断ち切れる。愛しいひと、大事なひとともいずれ別れなければならない。ひとを慈しみ、愛すれば愛するほど別離は辛く悲しいものとなる。こんなむかつく矛盾はない。だったらいっそ虚無的になって誰も愛さず無茶苦茶して死んでやろうかと思う。しかし本書を読んで、だからこそもう一度、その矛盾に満ちた生というもの、矛盾そのものを大事にしよう、慈しむようにしようと私は思った。本書は強い時間を持つ重要な文学作品である。
生―命四部作〈第3幕〉  / 柳 美里
生―命四部作〈第3幕〉
  • 著者:柳 美里
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(345ページ)
  • ISBN-10:4101229287
  • ISBN-13:978-4101229287

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