花街という学校
壇ノ浦の一族滅亡後、平氏残党の女たちが野の花を摘んで売った。やがてそれだけではなくて身を売った。栄華の昔を知る人は彼女たちを「上臈」と呼び、そこから女郎ということばが生まれたという。文化的優位にあっていまは落魄した女を新興階級が買う。春を買う客の側の一貫したモティーフとして、著者はこれを「上淫願望」と名づけている。花街はたんなる売春の巷ではなく、変則的ながらも文化を継受し、伝播する場でもあったわけである。秀吉治下の天正年間、京の二条柳町に最初の公認遊廓が創設された。以後、明治五年の「娼妓解放令」による表向きの廃娼と、昭和三十一年の売春防止法による実質的な花街解体にいたるまで、三百数十年に及ぶ花街の歴史である。
といっても、著者のテリトリーはおおむね京都中心であり、江戸吉原、大坂新町以下全国の遊廓の報告がこれに付随する。発足当初からあくまでも島原優先で、後続の遊廓はその出店として承認されたいきさつがあるためだろう。それだけに島原、祇園、先斗町をはじめとする京都諸遊廓の記述は精細をきわめ、衰微する島原花魁を新興の祇園芸者が追い抜いてゆくさまや、大石内蔵助の遊んだのが祇園ではなく、もうすこしお手軽な撞木町やかげま茶屋の宮川町だったなど、意外なエピソードがたのしめる。
花魁たちの教養は高かった。莫大な経費と念入りな教育が投入された。なにしろたばこの吸い方から文のやりとりにいたるまで、遊客との駆け引きのしきたりは煩瑣をきわめる。花の命はみじかい。十四歳でデビュー、二十歳を越えるかこえぬかでお払い箱。退廓後の消息は、『色道大鏡・道統譜』によれば、二十四人中、「北国などへ赴く」が八人、「尼になる」が六人、その後も「廓内に住む」「退廓直後死亡」がそれぞれ四人。「華麗な文化と陰湿残忍な女性虐待」の「相反する両面」を如実に語る数字である。
おもしろいのは、明治に廃廓した旧遊廓跡地が近代教育の場に転用されたこと。「女紅場」と呼ばれた女性教育施設が娼妓の近代産業要員化のために設置される一方、良家の子女のための高等女学校の前身にもなった。それに京大教養部の前身洋学校も、遊廓跡地に設置されたという。「将来の学校は劇場になるだろう」とバーナード・ショウはいったが、近代が一巡して教育がソフト化すると逆流現象が起こりはしまいか。
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