解説
『鈴木いづみ セカンド・コレクション〈3〉 エッセイ集(1) 恋愛嘘ごっこ』(文遊社)
苛烈に生きることが、楽しく生きること
生きづらい若者が多いと聞く。他の人がまったく緊張しないであたりまえのようにしている場面で、なぜか意識が強ばり、その緊張に耐えながら生きるのが辛くて仕方なく、ついにはその緊張に耐えられず、社会生活から脱落してしまうのである。なんでそんなことになるのかというと、自分の振る舞いに自信を持てないからで、なぜ自信を持てないかというと、自分の価値を計る基準が自分と同じく不安定である、身近な他人であるからである。
だからなんとかして、格好いい肩書きとか金みたいなわかりやすい基準を自前で用意して安定しようとするのだけれども、金や名誉はみなが欲しがるからなかなか手に入らず、そんなことをするうちに敗北感や挫折感が募って、ますます生きづらくなるのである。
女性の場合、この傾向は顕著で、それは男性向けの雑誌が、女のこまし方、みたいな特集ばかり組んでいるのに比して、女性向けの雑誌が、いかに生きるか、という特集をしばしば組んでいることからも知れる。
しかしこれはある意味で言うと当然の話で、なぜなら男性は天然自然に男性であるが、女性が社会で思われているような女性であろうとすれば、人工的であらざるを得ないからで、私は六本木で完全に気が狂った若い女を見たことがあるが、整った顔立ちのその女が、パンを食べ食べ、呪詛(じゅそ)の言葉を喚き散らし、外股で歩くその姿は、人間としては、或いは、動物としては天然自然な姿で、外見に対する顧慮を放棄しているという意味では楽な姿に見えたが女としては異様な姿であった。
かくあるべしと人為的に設定された姿を、それは不自然である、として裏切ると、それがかえって不自然にみえてしまうというのは実に恐ろしい逆説で、鈴木いづみは、徹底してそのことにこだわった作家であると思う。
人工的人為的であるということはどういうことかというと、それは人間が考えたフィクションということで、人間はフィクションをどのように考えるかというと文章で考える。
このことのもっとも分かりやすい例は、ときおり雑誌などでみかける、自然体、というフィクションで、自然体という生き方を読者に提示するため、モデルという、或いは、タレントという、白紙のカンバスみたいな人間に、いかにも自然体みたいな服を着せ、ナチュラルメイクという、その名称自体がすでに矛盾したメイキャップを施し、いかにも自然に見えるようなライティングをして、その様をカメラで撮影するのであって、こんな不自然なことはないのである。
しかしでは女性解放、女性は、かくあるべし、という姿を強制されているのだから、そんなことはやめて、またそうした造りものの自然体ではなくして、本当に自然に生きればよいかというと、それは無理で、なぜ無理かというと、人類が何千年も築いてきた歴史や文明に生身で対抗しても敗北するに決っているからである。
だから女性がいま与えられているフィクションに居心地の悪さを感じるのであれば、別のフィクションを拵えるしかないのであり、鈴木いづみはこのことを生涯をかけて書き続けた作家であると思う。
その鈴木いづみのフィクションとフィクションを支える思想は、一言でいうと、「楽しくしよう」ということであると思う。
どんなに居心地が悪くても、どんなに違和感を感じても、とにかく、なにがなんでも楽しくする。笑う。そのためにはなんでも、どんな苦しいことでもするし、楽しくするためには死んだっていい。というのは、ちょっと考えれば矛盾しているということがすぐに分かる。しかし、鈴木いづみはその矛盾を自らの文章の力、フィクションの力で無理矢理にねじ伏せようとしたのである。
その腕力は初期のエッセーを集めた本書においても顕著で、人間が、女性が生きていくということの本質を、あっけないくらいに明晰に、ということは簡単に説明がしてあって、その内容は、これらのエッセーが書かれてから三十年近くが経ったいま、社会で起きていることについてもきわめて示唆的である。
例えば、傷、欠損、欠落を埋める精神の働きについて。大衆がなにに夢中になるかということについて。カルト的であること、モノマニアであることについて。などは、いま人が分からなくなっていることを、ごく簡単に解明していて、すがすがしいほどである。
いま、どのように生きるべきか迷っている人にとって本書はきわめて実用的な指南書である。
生きるということは苛烈なことであり、しかしに、苛烈生きることが楽しく生きるということだということを本書は教えているのである。
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