喧騒とは無縁の澄明な世界
昔、野呂邦暢という作家がいた。亡くなったのは1980年。42歳という若さだった。30年以上の時間が過ぎたことになる。もっとも世に知られているのは芥川賞を受賞した「草のつるぎ」だろう。他にも郷里・諫早を舞台にした佳品を数多く残した。
けっして目立つ作風ではない。時代を駆け抜けるような疾走感もない。風景を正確に写し、抑制のきいた表現で職人的な小説を多く残した。
むろん私もそうだが、野呂にはファンが多い。だから彼の死後も細々とだが、複数の出版社から彼の作品集が編まれ、出版されてきた。それ自体、稀有だと思う。
そして今度、文遊社から全8巻の予定で小説集成が刊行され始めた。第1巻は、初単行本化の短編2編を含む初期小説集である。
中でも彼の第1作「壁の絵」は本当に素晴らしい。アメリカへの憧憬を、朝鮮戦争勃発時の日本で、屈折した感情のうちに書き留めた小説。朝鮮戦争をこんな形で小説にした例は、他に思い浮かばない。喧騒とは無縁の澄明な世界に入る。小説を読む喜びに浸る。小説の世界から出たくなくなる。