書評

『すべての火は火』(水声社)

  • 2017/10/11
すべての火は火 / フリオ・コルタサル
すべての火は火
  • 著者:フリオ・コルタサル
  • 翻訳:木村 栄一
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • 発売日:1993-06-01
  • ISBN-10:4891762861
  • ISBN-13:978-4891762865
内容紹介:
斬新な仕掛けと驚嘆すべき技巧に満ちた、脱出不可能の8つの迷宮的小説空間。

フリオ・コルタサル(Julio Cortazar 1914-1984)

アルゼンチンの作家。高校時代に詩集『現在』(1938、未訳)を自費出版。『動物寓意譚』(1951、未訳)、『遊戯の終り』(1956)、『秘密の武器』(1959)はいずれも幻想作品を収めた短篇集。『懸賞』(1960、未訳)と『石蹴り遊び』(1963)というふたつの長篇が評判になり、とくに後者はコルタサルを南米文学の代表作家という地位に押しあげた。そのほかの著作に『通りすがりの男』(1977)、『海に投げこまれた瓶』(1982)などがある。

introduction

ただひとつの短篇で心底魅了されてしまう。そんな体験がたまにある。コルタサルとの出会いがそうだった。〈幻想と怪奇〉一九七四年五月号に載った「山椒魚」である。〔ぼくは、山椒魚のことばかり考えていた時期があった〕という奇妙な書きだしが印象的だった。笑ってしまいそうだが、なんだか切実で、ちょっと不気味でもある。ストーリイの切れ味も、その当時ぼくが好きだったヘンリイ・カットナーやフリッツ・ライバーの最上の短篇を髣髴とさせた。名前を聞いたことのない作家だが、もしこんな作品ばかり書いているのなら、たいへんなものだと思った。それから数年後、短篇集『遊戯の終り』が訳され、ぼくは仰天した。まさに、コルタサルはそんな作品ばかりを書いていたのだ。

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集めだすと止めどがなくなるのが悪い癖で、全集や叢書の類が本棚のかなりの部分を占拠している。必要な巻だけ揃えればよいのだが、ついつい読みもしない巻まで買ってしまうのである。しかし、なかには全巻これ珠玉という叢書があって、こうなると逆に読みきってしまうのがもったいない。年代もののワインでも秘蔵するように、一冊ずつ間をおいて楽しむことにする。冷静に考えてみれば、完全無欠粒揃いの作品ばかりを集められるはずもなく、全巻を通じての雰囲気(編集の趣意や統一された装幀)に酔っているふしもある。まあ、それだって本の楽しみかたのひとつだ。

とりわけ愛着があるのは、早川書房の《異色作家短篇集》である。畑農照雄の装幀が楽しい改訂版や、さらに化粧直しをして二〇〇五年から出直している新版も悪くないが、シックなデザインの旧版にはかなわない。造りのよい函に入っているのが、いかにも秘密めいていてよい。ロアルド・ダール、ジョン・コリアといった“奇妙な味”の代表選手から、リチャード・マティスン、ロバート・シェクリイ、レイ・ブラッドベリなどのSF作家も含めて、全十八巻。内容的にはシオドア・スタージョンが素晴らしいが、個人的にはシャーリイ・ジャクスンが嬉しい。ああ、こんなシリーズは、もう二度と実現しないだろうな。収録作家の顔ぶれということもあるが、だいいち、ああしたキチンとした函をつくってくれる業者はもう少ないし、いてもコストがかさむ。

とりあえず装幀のことは断念するとして、せめて中身だけでもと、おりにつけて新しい《異色作家短篇集》のラインナップを勝手に考えてみたりする。この叢書の十二巻目か十三巻目あたりに、フリオ・コルタサルが入るはずだ。
ながながと《異色作家短篇集》の話をしてきたのは、ほかでもない。ラテンアメリカ文学や魔術的リアリズムという、こわおもての枠ではなく、スタージョンやブラッドベリのとなりにコルタサルをおいてみたいのだ。アルゼンチン短篇作家ということで、先輩格のボルヘスとよく比較されるコルタサルだが、ありふれた生活世界からトワイライトゾーンへと、読者をさそいこむ手さばき、平易な文章で異様な物語を構成するセンスは、右((ALL REVIEWS事務局注:上)に名をあげた異色作家たちの類縁といってよい。実際に作品を見てもらったほうがはやい。取りあげるのは、第四短編集にあたる『すべての火は火』である。

冒頭の「南部高速道路」は、交通渋滞というだれもが日常的に経験するアクシデントを扱っている。二メートル進んでは停止するという状態の繰りかえし。ある者はイライラとラジオの報道に耳をやり、ある者は諦めたような目で横のクルマを観察する。ただ待つばかりの長い時間。やがて夜が到来し、朝が明け、高速道路に閉じこめられたまま季節が移りかわっていく。こうした日常から非日常への移行を、コルタサルはあっさりと描いてみせる。プジョー404の技師はタウナスの男とともに、周囲のクルマに呼びかけてコミューンをつくる。さらに、ほかのコミューンとの物々交換・情報交換、道路外への食料の調達、死者の処理などがおこなわれ、新しい人間関係が形成されていく。はたして渋滞は解消されるのか? いや、それよりも、渋滞がとけたとき、登場人物たちはどうなってしまうのか?

日常から非日常への滑りこむような移行、そして日常への帰還。こうした構成は、「病人たちの健康」と題された作品でも繰りかえされる。一家にとって最大の心配事は、病気で臥せっている母だ。彼女がショックを受けないように、息子の事故死も、叔母の不調もひた隠しにされる。息子は急な仕事でブラジルに赴任したと、家族は口裏をあわせる。彼が帰郷できない理由を母に納得させるため、息子からの手紙を偽造するほどだ。叔母も自分の発熱や頭痛を、母に悟られないように、疲れをとるため別荘へ行くと口実をつけて、療養所に入る。じつは叔母のほうが、母よりも病気が重いのだ。療養所に着いてほどなく、彼女は息を引きとる。もちろん、それも母には内緒だ。家族のものは嘘を糊塗するために、さらに嘘を重ねなければならない。こうして虚偽を中心に、家族の生活が構成される。やがて母が亡くなり、ふだんの生活が戻ってくる。しかし、その日常はかつての日常とおなじものではない。非日常から日常への帰還は、メビウスの輪を周回したように、なにかが裏がえしになっている。

この短篇集の最後に収められた「もう一つの空」になると、日常と非日常の関係はもうすこし微妙なものになる。ブエノスアイレスに住む青年は、歓楽街グエメス・アーケードをさまよううち、パリのヴィヴィアンヌ回廊に出てしまい、娼婦と恋に落ちる。そこは、人々が絞殺魔の影におびえ、カフェではスキャンダラスな噂話が飛びかう、自堕落でスリリングな世界だった。主人公はある店で見かけた「南米人」と呼ばれる奇妙な人物が、気になってしかたがない。あいつこそ絞殺魔ではないか? そんな疑念すら湧いてくる。その一方で、彼自身と南米人とのドッペルゲンガー的な関係も匂わされる。主人公、絞殺魔、南米人は、奇妙なかたちに配置された合わせ鏡のように、たがいの像を歪めて映す。

しかしそのミステリアスな関係も、長くはつづかない。絞殺魔の恐怖も、南米人のうさんくさい風貌も、人々の記憶から薄れていく。そして青年は、ヴィヴィアンヌ回廊へつながる道を失い、退屈な平和が戻ってくる。あのままパリに留まれば、きっと破局がやってきただろう(ドッペルゲンガーに向きあった者の運命は明白である)。しかしブエノスアイレスの日常への帰還は、言いようのない喪失感を残す。

日常と非日常のあわいを描く、コルタサルの筆致は、さりげなく、そして精緻だ。技巧がきわだつようなことなないし、目眩ましという印象を読者に与えることもない。ともすれば読みおとされてしまいそうな、デリケートな描写を重ねて、世界のうつろいをすんなりと表現している。そんな彼の作品集には、やはり、あの端正な函入りの装幀がいちばん似あう。

【この書評が収録されている書籍】
世界文学ワンダーランド / 牧 眞司
世界文学ワンダーランド
  • 著者:牧 眞司
  • 出版社:本の雑誌社
  • 装丁:単行本(397ページ)
  • 発売日:2007-03-01
  • ISBN-10:4860110668
  • ISBN-13:978-4860110666
内容紹介:
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すべての火は火 / フリオ・コルタサル
すべての火は火
  • 著者:フリオ・コルタサル
  • 翻訳:木村 栄一
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • 発売日:1993-06-01
  • ISBN-10:4891762861
  • ISBN-13:978-4891762865
内容紹介:
斬新な仕掛けと驚嘆すべき技巧に満ちた、脱出不可能の8つの迷宮的小説空間。

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