書評
『古今和歌集』(岩波書店)
「百人一首」や「伊勢物語」を通して、親しんでいる和歌がある。たとえば、
一首目は、小野篁朝臣が隠岐国に遠流の刑で流されたとき、船出にさいして詠んだ歌である。二首目は、「伊勢物語」の第六十九段で、一夜をともにした相手へ、斎宮から届けられたもの。
それぞれを私は、独立した物語のなかで愛唱してきた。これらが「古今和歌集」に収められているものであることは、知識としては知っていた。が、「いい歌なんだから、勅撰集に採られて、あたりまえ」という程度の認識だった。
本書の特徴のひとつは、「古今和歌集」を、撰者の視点で読み解いていこうという点にあるだろう。もちろん、歌の味わいかたには、読者としての著者の視点が、存分に発揮されている。が、そのさい常に、一首が「古今和歌集」全体のどの位置に置かれているか、が意識されているのだ。
たとえば「わたの原……」の歌は、羈旅歌の部(旅の歌を集めた部)に収められている。
が、いっぽうで同じ作者の次の歌は、雑歌の部だ。
政治の中心地を追われた文化人の、遠島での嘆きの歌である。著者はこの二首を通して以下のように述べる。「遠流に関して、羈旅歌だけの篁では、古今集はきれいごとに終ってしまう。雑歌の部がなかったら、人間のこうした心の事実はどこにおさめられていったろう」
また「君や来し……」の歌は、恋歌全五巻のほぼ中央に置かれている。この歌を愛してやまないという著者の鑑賞は、鋭く、優しい。「人間発見」「情事を美しいこととして間接に表現する、その表現の質の高さ」「成就を詠んで成功」といった言葉には、はっとさせられた。
そのうえで「(この歌を)恋歌五巻のほぼ中央に据えた古今集の撰者は、恋歌の頂点として憚らないほどの評価をこの歌に与えていたのではないか」と読む。
撰者の美意識という糸。ばらばらに美しかった真珠たちが、一連の首飾りとなって姿を現してくる。全体のバランスから見た賀歌や雑歌についての見解も新鮮だった。
【この書評が収録されている書籍】
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣り舟
君や来しわれや行きけむおもほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
一首目は、小野篁朝臣が隠岐国に遠流の刑で流されたとき、船出にさいして詠んだ歌である。二首目は、「伊勢物語」の第六十九段で、一夜をともにした相手へ、斎宮から届けられたもの。
それぞれを私は、独立した物語のなかで愛唱してきた。これらが「古今和歌集」に収められているものであることは、知識としては知っていた。が、「いい歌なんだから、勅撰集に採られて、あたりまえ」という程度の認識だった。
本書の特徴のひとつは、「古今和歌集」を、撰者の視点で読み解いていこうという点にあるだろう。もちろん、歌の味わいかたには、読者としての著者の視点が、存分に発揮されている。が、そのさい常に、一首が「古今和歌集」全体のどの位置に置かれているか、が意識されているのだ。
たとえば「わたの原……」の歌は、羈旅歌の部(旅の歌を集めた部)に収められている。
が、いっぽうで同じ作者の次の歌は、雑歌の部だ。
隠岐国に流されて侍りける時に詠める
思ひきや鄙の別れにおとろへて海人の縄たきいさりせむとは
政治の中心地を追われた文化人の、遠島での嘆きの歌である。著者はこの二首を通して以下のように述べる。「遠流に関して、羈旅歌だけの篁では、古今集はきれいごとに終ってしまう。雑歌の部がなかったら、人間のこうした心の事実はどこにおさめられていったろう」
また「君や来し……」の歌は、恋歌全五巻のほぼ中央に置かれている。この歌を愛してやまないという著者の鑑賞は、鋭く、優しい。「人間発見」「情事を美しいこととして間接に表現する、その表現の質の高さ」「成就を詠んで成功」といった言葉には、はっとさせられた。
そのうえで「(この歌を)恋歌五巻のほぼ中央に据えた古今集の撰者は、恋歌の頂点として憚らないほどの評価をこの歌に与えていたのではないか」と読む。
撰者の美意識という糸。ばらばらに美しかった真珠たちが、一連の首飾りとなって姿を現してくる。全体のバランスから見た賀歌や雑歌についての見解も新鮮だった。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞
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