書評

『涙の詩学―王朝文化の詩的言語―』(名古屋大学出版会)

  • 2021/09/14
涙の詩学―王朝文化の詩的言語― / ツベタナ・クリステワ
涙の詩学―王朝文化の詩的言語―
  • 著者:ツベタナ・クリステワ
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(510ページ)
  • 発売日:2001-03-30
  • ISBN-10:4815803927
  • ISBN-13:978-4815803926
内容紹介:
平安朝の袖はなぜこれほど涙に濡れているのか? 『古今集』から『新古今集』にいたる八代集を、〈袖の涙〉のメタファーを軸に、イメージの連鎖・言葉のネットワークの展開過程をつぶさに辿ることによって読み解き、〈涙〉のメタ喩的な役割と王朝文化における詩的言語の卓越した位置を明らかにする。

小町の袖濡らす歌ことば

平安の貴族たちが流していた涙は、どうやら古代万葉人が流した涙とは性格を異にしているようだ。日常生活で流されていた涙は別として、とりわけ和歌や物語のなかで平安の貴族たちが流していた涙は、万葉人の場合とはかなり違っていたのではないか。自然の涙と歌ことばの涙、その違いである。

そう主張したのがブルガリア出身の日本研究者・ツベタナ・クリステワさんだ。モスクワ大学の日本文学科を卒業し、鎌倉時代の特異な物語「とはずがたり」のブルガリア語訳で文学博士をとった女性である。そのクリステワさんが昨年、日本語で『涙の詩学』(名古屋大学出版会)という書物を出版して学界を驚かせた。もちろん私も大いに驚いた一人である。現在は東京大学大学院の客員教授をしていられる。[※2021年現在、国際基督教大学名誉教授]

▽ ▽

「とはずがたり」のブルガリア語訳を出したとき、多くの読者の関心をひいたのが、そこによく出てくる「袖の涙」という表現だったという。昔の日本人は女も男も、いったいどうしてそんなに絶えまなく涙を流していたのか、という疑問がつぎつぎと寄せられた。お化粧していたらしいのに、大丈夫だったのか。いくら濡れても濡れきらないあの袖は、タオルのような生地でできていたのか。

それらの疑問に答えるために、クリステワさんのつぎへの研究がはじまった。古今集を手はじめに新古今集にいたる勅撰和歌集をしらべあげ、「袖の涙」にかんする千変万化の事例を数えあげていく。それらを多彩な理論や方法を使って分析し、ついに「涙の詩学」という前人未踏の分野を切りひらいた。涙の領分には、「自然の涙」とは一味も二味も違う「歌ことばの涙」の世界が花開いていたのだと論じているのである。涙の美学といいかえてもいいだろう。

たとえば古今集の小野小町。

  をろかなる涙ぞ袖に玉はなす我は塞(せ)きあへずたぎつ瀬なれば

小町に恋をしかけた男への返歌、ということになっている。男が流す涙はたんに袖のうえに玉をなすだけの、平凡でつまらない涙。それに比して自分の流す涙は激流のようにほとばしっているので、とてもせきとめることなどできないでしょうといっている。平凡な涙に激しい涙をからませた言葉遊びである。「袖の涙」はここでは歌ことばの涙、詩語としての涙になっているというわけである。

もう一つ、新古今集ではどうだったのか。

  夢にても見ゆらんものを欷きつゝうちぬるよゐの袖のけしきは

式子内親王の歌である。鎌倉初期の歌人で、後白河天皇の第三皇女。俊成、定家と親しかったが、法然上人がかの女の「思い人」だったとの説もある。歌は、せめて夢の中ででもみたいものだ、嘆き悲しんでいる宵に涙を流し、それが袖を濡らしている景色を、――というのであろう。ここにみられるのが「夢の寝覚め」と「袖の涙」を結びつけた言葉遊びなのだという。小町が自分の激しい涙と相手の男のつまらない涙を対比して遊んでいるように、内親王も夢とうつつのはざまで袖を濡らす涙を眺めやって楽しんでいる。

▽ ▽

話は飛ぶが、マンガ家でエッセイストの岡崎京子さんが以前こんなことを書いていた。1990年のことだが、礼宮様と紀子様が結婚され、黒塗りの自動車にのって十数分間だけパレードをされた。岡崎さんはその映像をテレビでみていたとき、自然に涙があふれてきてあわてたのだという。そんなはずはない、ああいうのをみて自分が泣くはずがない。それなのにどうして両眼から涙があふれたのか。そう自問自答したはてに、ああ、これは無根拠の感動の涙なのだ、と思うことにしたという。

当時私は、無根拠の涙とは異なことをといぶかったものだが、もしかするとこれも「袖の涙」の伝統につらなる一種の言葉遊びだったのかもしれない。
涙の詩学―王朝文化の詩的言語― / ツベタナ・クリステワ
涙の詩学―王朝文化の詩的言語―
  • 著者:ツベタナ・クリステワ
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(510ページ)
  • 発売日:2001-03-30
  • ISBN-10:4815803927
  • ISBN-13:978-4815803926
内容紹介:
平安朝の袖はなぜこれほど涙に濡れているのか? 『古今集』から『新古今集』にいたる八代集を、〈袖の涙〉のメタファーを軸に、イメージの連鎖・言葉のネットワークの展開過程をつぶさに辿ることによって読み解き、〈涙〉のメタ喩的な役割と王朝文化における詩的言語の卓越した位置を明らかにする。

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初出メディア

日本経済新聞

日本経済新聞 2002年5月19日

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