読みの名手の論考を一冊に
著者独特の遠近法によって甦る作家や作品
室井光広は読みの名手である。同じ本を読んで引用するにしても、実にうまい例を見つけてくるものだと思わず感心してしまう。その引用がほとんど箴言になっているのだ。だが読みのうまさというものは、読んだというだけでは外には伝わらないし、メモを取っているとしても、それだけでは的確な表現に絞り込むことはできないだろう。書くという作業を通してはじめて他者に伝えうる形になるからだ。そのことは彼自身も意識していて、「私の場合の<読書>は、書を読むだけではなく<読んで書く>」ことだと述べている。「すでに書かれてしまっていることをめぐる読みの芸術に他ならない文学にあって作家はすなわち読者であるとする読者教の信者の一人に数えられてかまわない」という彼の言葉は、騎士道小説をめぐる読みからドン・キホーテが生まれたことや、『ドン・キホーテ』の読みからボルヘスの登場人物ピエール・メナールが生まれたことを踏まえている。作家・作品について論じると同時に、読むことと書くことの関係を他者の先行作品のうちに具体的に見て考えるというのが、本書の基本的姿勢である。著者は本書以前に、カフカについての本を出しているが、今回は十年ほどの間に書かれ、文芸誌などに発表された、T・S・エリオット、ベンヤミン、ヒーニーら好みの作家・詩人・批評家についての論稿を集めて一冊の本にした。『ドン・キホーテ讃歌』というタイトルは、前述のポストモダン的意識とともに彼の特質をよく表していると言えるだろう。批評の語りが、オクタビオ・パスの対談のタイトルではないが、二つの声によるソロになっているからだ。正面から論じる声とそれに半畳を入れる声の二つが聞き取れる。ここに室井のしたたかさの秘密がありそうだ。
本書の最後に、太宰治をめぐっての寺山修司と三島由紀夫の対談を引いているところにもそれは窺える。室井は、「ドン・キホーテは本来、三島由紀夫的なサムライではなく、太宰治的な百姓騎士だった」と述べ、寺山のユーモラスな挑発に、「硬直化したキホーテ(三島)」に対する揶揄を見ているのだが、この引用を通して、絶えず辺境性を意識する著者の東北ナショナリズムとでも言うべきものとともに、一義的言説の刀を振り回す権力者への反感が垣間見えるのだ。したがって、本書のタイトルにあるドン・キホーテには「サンチョ付き」という但し書きが含まれていると言っていいだろう。
言葉へのこだわりは著者の特徴のひとつだが、本書では言葉遊びという形でそれが出ている。先に引いた<読書>にしても、<書>から書くという意味を引き出してくる。あるいは「T・S・エリオットの効用」では、スキマから間、魔さらに蝶番へと転じている。しかもそれが論考の核心になっていたりするのだが、ときに吉増剛造の詩を思わせるこうした手法は、考えてみれば、室井の詩人的資質のなせる業なのかもしれない。
論考自体は必ずしも通説を覆すようなものではない。むしろ細部の読みを徹底させるスタンスを取っているのだが、そこに著者独特の遠近法が加わると、さんざん論じられ、場合によっては過去に追いやられていた作家や作品が、甦ってくるのが不思議だ。それこそが真の意味での読みということなのだろう。ボルヘス流に言えば、彼はおそらく、眠っている書物を目覚めさせる名人であるにちがいない。