受動と能動の区分を再定義する
本書の冒頭に、依存症者とのやりとりがある。しばしば自己責任とみなされがちなアルコールや薬物の依存症は、「本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気」であることが理解されない。それは果たして、本当に「意志」の問題なのか。本書のスリリングな問いは、ここから始まる。行為に意志は常に先行するのか。そうとは限らない。脳科学でも、意志より先に脳活動が開始するという有名な実験がある。意志は日常的な言葉だが、いざ定義づけようとすると曖昧になる。國分はこの曖昧さの原因が、能動/受動という区分の曖昧さに起因すると考える。だとすればこれは、文法の問題だ。そう考えた哲学者は、言語学者バンヴェニストに導かれて、今となっては失われた「態」である「中動態」と出会う。
比較言語学の教えるところでは、能動態と対立するのは受動態ではなく、本来は中動態であった。再びバンヴェニストによれば、「在る」「食べる」などの能動態は動詞の過程が主語の外で完遂するのに対し、「生まれる」「気にかける」などといった中動態では、動詞の過程の中に主語が位置づけられることになる。
バンヴェニストも述べる通り、言語は思考そのものではなく、思考の可能性を規定する。能動態と中動態が対立していた古代ギリシャ世界には「意志」の概念がなかったという驚くべき指摘がなされる。デリダは中動態を能動態と受動態に振り分け、それを抑圧するところから哲学が始まったと指摘した。
能動対受動という対立図式は、ある行為を誰に帰属させるべきかという問い、すなわち意志の問題を前景化する。いっぽう、中動態の概念を再導入することで見えてくる問題もある。國分は「カツアゲ」の例を出して、脅されて金を出すという非自発的同意をアレントが扱えず、フーコーが適切に記述できたのは中動態を意識したせいであると言う。
ここでスピノザが登場する。國分の出発点となった哲学者だ。彼は中動態だけの世界を記述しようと試みた。そこでは神、すなわち自然は無限であり、その外部は存在しない。そのような世界を説明できるのは、中動態だけである。
人間の「変状」には、中動態でしか説明できない自閉的・内向的過程が存在する。この点を意識することで、能動と受動が再定義される。すなわち、「われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき」は能動であり、われわれの変状がわれわれの本質ではなく外部からの刺激の影響を多く受けている場合は受動である。このように考えることで、先述したカツアゲは受動的行為であるとはじめて言いうるのだ。
さらに中動態の哲学は、自由をも定義づける。「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為する」こと、と。そう、自由とは必然に従うことなのだ。この視点からハーマン・メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』に関するアレントの読解が批判的に検討され、登場人物であるビリーやクラッガートにおける自由の可能性が、われわれ自身の問題と重ねて論じられる。
冒頭の対話に戻るなら、たとえばアルコール依存症の人々は、自由に飲酒する喜びを喪失した人々、自身の「外」にある病によって飲酒を強制された人々、と言えるだろう。酒を「ひきこもり」などに置き換えることも、たぶん可能だ。彼らの「本質」と「自由」の回復を支援する臨床家にとっても、「中動態」から見える風景は、新たな希望の糧となるだろう。