書評
『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)
「ケアの倫理」「正義の倫理」葛藤
本書の冒頭、少女時代の著者は、心を病んだ母親に付き添って、精神科病棟で生活を始める。あきらめと沈黙が支配する病棟の雰囲気は、著者の記憶に長く留(とど)まった。彼女は今ならば「ヤングケアラー」と呼ばれたかもしれない。精神疾患の家族をもつ人の話を聞きたい。著者の最初の動機はそこだった。最初に会った当事者の「マナさん」は、病んだ姉のケアに苦しんだ過去がある。そのマナさんが姉のことを「世界でいちばん憎くて、世界でいちばん愛している人」という。著者は彼女の話を聞くうち、自分が誰かわからない感覚を覚えはじめる。自己同一性の混乱? いや、彼女はむしろ積極的に、黙ることで自己を確定しない自由を必要としたのだ。
それゆえ、二人目の当事者である「かなこさん」の告発は重要だ。彼女は「ヤングケアラー」という語感の軽さを批判する。それは「社会的ネグレクト」と呼ぶべきだ。「助けて」と言えない子どもじゃなくて、「助けて」をキャッチできない社会に責任がある。もちろん助けにならない精神医療にも。
ヤングケアラーの存在を精神医学化することは難しくない。それは「逆境的小児期体験(ACE)」であり、児童虐待との境界線は時に曖昧で、長期にわたるケアの体験はトラウマ的なものになりうる。周囲の大人は早期にその存在に気づき介入するか、場合によっては一時保護などの対応も必要となる。トラウマの手当てにはその経験を繰り返し聴取し、ひとつのナラティブとして当事者の人生に再統合するしかない。
自分で書いていて嫌になる。当事者の体験を語る語彙(ごい)が、精神医学には圧倒的に不足している。本書の言葉は、遥(はる)かに複雑で豊かな襞(ひだ)と陰影を帯びている。著者は自分の経験が言葉によって固定されることに抵抗する。意味の定まらない小文字の記憶が自分を支えていると感じつつ、ケアとはそうした不確実性の中に身を置くことだと主張する。だからこそ、ケアを必要とする家族の存在は、「傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味」なのだ。
人と人の連続性をもとめる自己犠牲的なケアの欲望と、連続を切断して個でありたいという欲望の往還運動。この対比は、ちょうどキャロル・ギリガンが提唱した「ケアの倫理」と「正義の倫理」の対比に重なる。著者が「ケアとは、失われた連続性を、必死で取り戻そうとすることなのではないか」と述べるように、ケアの倫理は、人と人がつながり支えあう関係性である相互依存や愛着を重視する。
ヤングケアラーの葛藤は、ギリガンが挙げる中絶を巡る葛藤に似て、責任を巡る葛藤をもたらす。「自分を犠牲にして親を守る」か「親を捨てて自分を守る」か。そこに一般化できる正解はない。ギリガンはこうした葛藤に「文脈的で物語的な」考え方が必要としたが、本書の記述はそれを超えていく。物語を振り切り、見返りを求めず、自己の消滅をも賭して、意味もなく「大丈夫」とつぶやきながら、献身的に腕を開いて他者を抱きとめること。その先にも「ともに生きる」生がありうると信ずること。対話の不確実性を信頼する評者もまた、その傍らに「きっと大丈夫」という言葉を添えたい。
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