本書は、ソ連の崩壊時、アジア通貨危機、リーマンショック後などの、過去の大きな危機に対して行われた「財政緊縮策」と「財政刺激策」の2つの経済政策が、生死を含めた人間の健康状態にどのような結果をもたらしたかを、世界各国の膨大な医療統計データに基づき公衆衛生学の観点から検証したものです。
今回は、著者による「はじめに」の抜粋を紹介します。
本当に人の命を救うことができる経済政策はなにか?
経済政策はどんな薬よりも生死を分ける
この本はデータとその裏に隠された物語をまとめたものである。わたしたち二人は一〇年以上にわたって経済危機の健康への影響を研究してきたが、それは単なる学術的興味からではなく、個人的な体験から生じた興味でもあった。わたしたちはどちらも経済的困窮を経験していて、健康を損なうとはどういうことなのかもよく知っている。デヴィッドはバンド活動に熱を上げすぎて高校を中退した。だが音楽では食べていけないので(今から思えばたいしたバンドではなかった)、ウェイターや集合住宅のメンテナンスの仕事などをして食いつないだ。ところがある日、突然仕事を首になり、その月の家賃が払えなかった。するとたちまち追い出され、テントや車、友人の家のソファなど、毎晩寝るところを探さなければならないその日暮らしの生活に転落した。そして冬が来て、体調を崩した。デヴィッドはもともと呼吸器系が弱かったので、とうとう気管支炎をこじらせて肺炎になったが、失業中で健康保険も金もなく、家もないので体を休めることさえできなかった。どうにか死なずにすんだのは運がよかったからだとしか言いようがない。その後は家族に支えられて大学に行き、医療経済と統計学を学んだが、そこで自分の経験が例外でも何でもないことを知って驚いた。なんとアメリカには、一回給料をもらい損ねただけでホームレスになり、助けを必要としている人々が山ほどいたのだ。
サンジェイのほうは、子供のころから家族の病気と縁の切れない生活を送ってきた。母親は長くコクシジオイデス症(アメリカ南西部の風土病で渓谷熱とも呼ばれる)という肺感染症を患っていた。父親は生活費と治療費を稼ぐために仕事を求めて各地を転々とした。母親は入退院を繰り返し、家には定期的に酸素吸入器が届けられた。サンジェイは数学が得意だったので、苦学しながらもマサチューセッツ工科大学(MIT)に進み、そこで健康問題にかかわる数学に出会った。人間の生死を分けるのは何かを見極めるための統計学である。
わたしたちはどちらも医学と公衆衛生をさらに学ぼうと大学院に進み、そこで出会った。それ以来ずっと、社会経済政策が健康に与える影響について一緒に研究している。なぜなら、結局のところ社会経済政策はどんな薬よりも、手術よりも、個々の医療保険よりも、人の生死に大きな影響を与えるからである。健康は病院や診療所が生み出すものではない。それは家庭、周囲の人々、日々の食事、空気、住環境などによって育まれる。現に、あなたの住所の郵便番号を見れば、ある程度平均余命がわかってしまうといっても過言ではなく、それほど健康と社会環境は密接な関係にある。
イデオロギーに走りがちな経済政策論議にもっと事実(ファクト)を
本書はわたしたちの研究を中心に、他の分野の最新の研究成果も取り入れてまとめたものである。ここで紹介するわたしたちの研究内容は、いずれも専門家(一流の経済学者、疫学者、医師、統計学者など)の査読を受けて論文として発表してきたものである。発表の場は英ランセット誌、ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル、米プロス・メディシン等の科学雑誌や医学雑誌が中心だが、そればかりではなく、経済や社会科学雑誌にも取り上げられてきた。
しかし学術誌は多くの人が手にとるものではないし、論文のままでは読みにくい。そこで、本書ではデータを平易な言葉に置き換えて説明するよう心がけた。なぜなら、誰もが自分たちの経済と健康について十分な情報を得た上で民主的選択に参加するべきで、そのための情報を提供することが本書の目的だからである。わたしたちは往々にしてイデオロギーに走りがちな経済政策論議にもっと事実を、確かな証拠を持ち込むべきだと考えている。
今回の大不況(編集部注:アメリカのサブプライムローン問題に端を発する世界金融危機とリーマンショック後の世界同時不況を指す)を機に多くの議論が闘わされてきた。自由市場主義者や緊縮策支持派は債務危機の克服ばかりを説いて人命の犠牲を無視している。その逆に、これに反対する人々は経済を犠牲にしてでも社会的セーフティネットを維持するべきだと主張している。しかしながら、この論争は昔ながらのもので、それぞれが基本論をぶつけるだけでは何の解決にもならない。実際、昨今の論争はヒステリックかつ攻撃的な色合いを増すばかりである。しかもどちらの陣営も、答えは二つに一つだと思い込んでいるところに大きな問題がある。
賢明な選択をすれば、人命を犠牲にすることなく経済を立て直すことができる。その場合、社会保護政策へ〔社会保護は社会保障とほぼ同義で、社会福祉と公衆衛生を含む。欧州では社会保護という言葉が使われることが多い〕の先行投資が必要になることもあるが、そうした政策は正しく運営されるかぎり決して損にはならず、短期的に経済を押し上げる助けになる上に、長期的には予算節約にもつながる。つまり健康維持と債務返済の両立は可能であり、それは過去のデータからも明らかである。ただし、この両立を可能にするには正しい政策に的確に予算を配分する必要がある。
[書き手]デヴィッド・スタックラー David Stuckler
公衆衛生学修士、政治社会学博士。王立職業技能検定協会特別会員。