書評
『オープンダイアローグ』(日本評論社)
生物学主義に対する精神医療の「維新」
オープンダイアローグ(以下OD)とは、フィンランド・西ラップランド地方において、1980年代から開発と実践が続けられてきた精神障害に対する治療的介入の技法である。薬物治療や入院治療をほとんど行うことなく、きわめて良好な治療成績を上げており、国際的にも注目されつつある。日本では2013年に同名の映画が公開されて話題となり、精神医療に限らない幅広い領域からの関心を集めつつある。本書は、ODの理論的主導者であるユヴァスキュラ大学のヤーコ・セイックラ教授らによる、最初のモノグラフである。ながらく待望されていた翻訳を担当したのは、京都でACTプログラム(精神障害者の在宅訪問支援)に取り組む精神科医、高木俊介氏だ。実践者による達意の翻訳で、ODの思想がいっそう身近なものになった。
ODの上げてきた成果は目覚ましい。本書で紹介されているデータによれば、精神障害に対する治療的介入によって、5年間の追跡調査で服薬が続いていたのは17%(従来型治療を受けた対照群では75%)、障害者年金を受給していたのは19%(同じく62%)だったという。
いったいどんな魔法かと思いきや、その手法は拍子抜けするほどシンプルだ。患者や家族からの依頼を受けたら、ただちに治療チームが結成され、患者の自宅を訪問する。患者や家族、そのほか関係者が車座になり、「開かれた対話」を行う。これを時には毎日、繰り返す。それだけだ。
もちろん、ただの対話ではない。ODは患者を説得しない。「良くなること」を目指さない。ひたすら良質の対話をつなぐことだけを考える。対話を通じて多様な声が交錯し、視点が接続され、辛(つら)い体験が共有されていく。すると、まるでそうした作業の副産物であるかのように、治癒がもたらされる。
ODは治療の技法であると同時に、一つの思想でもある。家族療法の源流であるベイトソンの理論とともに、ロシアの思想家ミハイル・バフチンの理論がもう一つの根幹をなしている点が興味深い。たとえばバフチンの「ダイアローグの思想」。言語とコミュニケーションが現実を作るという考え方に立脚して、傾聴と応答の重要性が繰り返し強調される。あるいは「ポリフォニー」。対話は一つの合意を目指すのではなく、さまざまな視点や意見が多声的に響き合うことが望ましい。そうした状況を経ることで、なんらかの答えが自(おの)ずから導き出されるのである。
実は評者もODに魅了された一人で、簡易な解説書『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)を昨年出版し、フィンランドで実践の現場も目の当たりにしてきた。現地でODは、すでに日常臨床の一部として実践されていた。
本書は共著であり、もう一人の著者はフィンランド国立健康&福祉研究所のトム・アーンキル教授である。彼は臨床家ではなく「未来語りのダイアローグ(以下AD)」の創始者である。ODが主として患者を対象とした技法であるのに対して、ADは、支援スタッフ向けの技法という違いがある。
支援の現場では、しばしば医療、保健、福祉、教育など、複数の専門領域の連携が欠かせない。しかし行政の現場では、しばしばタテ割りの弊害によって、連携がスムーズに行かないことが多い。ADはこのような場合に、多職種間の連携を促すための画期的な手法なのである。
複数の支援者や被支援者とその関係者が集まり、そこに外部の一組のペアのファシリテーターが参加する。彼らはまず参加者全員に、一年後などの近い未来、現在の問題がすべて解決している状況をイメージしてもらう。その未来の時点に身を置いて、一年前、すなわち現在を<思い出して>もらう。解決に当たって何が良かったのか、どんな行動をとったのか、誰が助けてくれたのか。そうしたことを一つ一つ<思い出して>もらうのである。
「誰が何をすべきか」という話し合いは、悲観論に傾きやすく、それぞれの立場の利害を巡って紛糾しやすい。近未来から現在を「想起」するという手法は、その間接性ゆえに、多職種間のポリフォニックな対話と連携を容易にしてくれる。ADはODよりもマニュアル化しやすく、わが国の支援現場でも、ほぼそのままの形で応用可能であろう。
ODもADも、ともに「言葉」と「対話」への篤(あつ)い信頼に支えられている。しかし現代の精神医療の主流を占めるのは、薬物治療などを中心とする生物学主義だ。この立場は、患者個人を匿名化して集団管理するタイプの医療システムに親和性が高い。ODとADの実践は、こうした状況に、「人間」と「言葉」、「主体」と「物語」の復権という異議申し立てをつきつける。それは言葉の正しい意味で、精神医療の「革命」よりは「維新 restoration」(“復活”を含意した変革)と呼ばれるべきなのかもしれない。(高木俊介、岡田愛訳)