ぜいたくに、たのしい漫画。
近藤ようこのマンガを読むのは、読んでしまうのがもったいないような、たのしい時間である。だから、もったいないけど、あるだけ読んでしまう。『猫の草子』は、いわゆるこの作者の得意とする分野「中世もの」の「おとぎ話」七編を編んだものだ。
ひとつひとつの話にはもとになる説話があるのかもしれないが、そのままマンガにしただけでない、現代人の感覚をそらさない実感がある。そのうえでコスチュームや風景や、空気感の魅力がたっぷり。
カワイくて、切ない。カワイイだけでなく、切ないだけでない。
七編のそれぞれは、実は前世紀に描かれたものだが、古い時代、即(すなわ)ち中世の話を描いているのだし、十分すぎるくらいに古いはずでいて、すこしも古くはないのである。
私は、マンガがこのように古典になっていくのを、すばらしいことだと思っている。大書店のマンガコーナー(コーナーというより、フロアというべきか)に行くと、途方もない数のマンガがならんでいて、途方にくれるけれども、ずっと昔から読み継がれてきた、つまり古典になったマンガのコーナーのある書店も、既にある。
既にあるけれども、私はマンガの古典が沢山の目利きの目玉を通して厳選されるのが当然のことになってほしい。
近藤ようこのマンガは、そういう意味合いにおいて古典なのだ。古典に材をとっているからでなく、古典的な力を持っている。
人物や動物や化外のもの達が、イキイキと動いている。美人がうつくしく、少年がカワイらしく、女がいろっぽい。
もう一冊は、折口信夫の『死者の書』を原作とした新作である。著者は、四十年前に初めて読んだ『死者の書』をやっと漫画にすることができました。とあとがきに書いている。「私が目指しているのは、折口信夫を全く知らない人のための『死者の書・鑑賞の手引き』です」
私は、折口信夫を名前と顔を知っているのみだが、引きこまれた。おもしろかった。
マンガを読んだ後、前から知ってたことにしようとして、検索して「青空文庫」でためしに読んでみると、なるほど、いったんマンガで知っていることが出てくると、ああ、このことは知っているゾ、この言い回しには馴染(なじ)みがあるゾ、と読みすすめる。マンガを見ないで、いきなりこの文を読んでいたら、すぐに話が見えなくなっていただろう。
すぐにあきらめてしまっていただろう。と、はげしく思った。著者の言う「鑑賞の手引き」は、間違いなく成功している。
だけでなく、いわゆる「学習マンガ」ではない。マンガの力が文章をしのぐ表現に達している。
帯に東雅夫氏が言葉をよせた。「この出逢いは、宿縁か。不世出の学匠詩人と、孤高の漫画家と−古代の語り部たちの魂を遙かに受け継ぐ、ふたりの幻視者が、時を超えて響き交わすとき、物語(カノヒト)は覚醒する。日本幻想文学屈指の名作を現代に蘇らせる、唯一無二のコラボレーション!」私が言うより説得力があると思って全文引用しました。