書評
『花の百名山』(文藝春秋)
好きだから引き寄せられ、畏れとともに山を登る
田中澄江。その名前が不意に目に飛び込んできたとき、ひどくなつかしい気持ちになった。胸の奥のほうに鎮まっていた姿がむくむくとふくらむのを感じ、初版刊行から三十七年ぶりの復刊だという本書へのうれしさが湧き上がってきた。私が田中澄江を知ったのは、成瀬巳喜男監督の映画「めし」「流れる」、吉村公三郎監督「夜の蝶」などの脚本家としての仕事によってだったが、戯曲家、小説家としても広く知られる。1908年生まれ、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業。夫は劇作家の田中千禾夫(ちかお)。旺盛な執筆活動のかたわら、登山家として山へ情熱を注ぎこんだ。本書には、さまざまな山行の途中で出会った花々への思いが溢(あふ)れ返っているのだが、と同時に、明治の女性のくっきりとした佇(たたず)まいが遥かな稜線(りょうせん)のように立ち上がり、無類の読み応えだ。
つねに、きっぱりとした好みや視線がある。
自分のふるさとの東京以外に、どこに住みたいかと問われれば、いくらヒグマがこわくても、やはり北海道と答えたくなる。自然が一番残っているからである。(「空沼岳・オクトリカブト」)
もしも一番好きな山はと聞かれたら、黒部五郎と答えたい。(「黒部五郎岳・チングルマ」)
いつどこの山へいっても、それが春ならば秋になって又来ようと思い、秋ならば、春の花々が咲いた頃にと思う。(「高峰山・コウリンカ」)
見知らぬ花、聞いたことのない花でも、読む者自身が自分の視線を注ぐ心持ちを味わう。全編おびただしい花の名前が登場し、色、匂い、姿形……ここまで知り尽くすものなのか、と驚かされるのだが、なぜか圧倒されたり置いてきぼりにされたりしない。
知識ではないのだ。山が好き、花が好き、流れる風や水の音が好き、内なる想いに導かれての、止(や)むに止まれぬ登山。読者は、未知の花との出会いを重ねるたび、いのち羽ばたかせる田中澄江の胸中に触れる。
山と花に、その人生が詰まっている。六歳のとき結核で逝った父は、山歩きが好きだった。亡くなる前、町はずれの小川をいっしょに歩きながら、父は富士を指さし、「お前もいまに登りなさい」と言った。四十代で亡くなった兄、五十代で亡くなった弟も、山登りを愛した。登山は、身罷(みまか)った家族の面影を親身に引きよせる時間でもあったと思い至るとき、目前に現れる花にいっそうの陰影がくわわる。
ただの「好き」では無論ない。
山には山の生きものの掟があるのだ。一年で一番気候のよい時期に、花のいっぱい咲いているときに花を見に来て、山と自分がまるで一体、一つのものでもあるような溺れかたをしている。このいい気な人間奴。ムシトリスミレの花のことごとくが一歩も人間を踏みこませぬ自然の埒(らち)を、その小さい花びらにこめてたちむかって来たら。おそろしくなって立ち上った。(「弓折岳・ムシトリスミレ))
いのちの淵との対峙(たいじ)。だから、老年になっても山と花を手放さなかったのだろうか。
「花の百名山」を踏破しながら、根を張り巡らせるようなひろびろとした読み心地。「まぼろしの花とも、あこがれの花とも言いたい花」と田中澄江が名前を挙げたトガクシショウマにも、いつか出会ってみたい。